深夜子供を寝かしつけ、スマホを片手にインスタグラムを徘徊していると「結婚、どう思う?」この8文字が目に入ってきた。瞬間、自分自身に問いただされている気がして背筋が伸びた。

価値観が合わない頑固者の私たちは喧嘩だらけの結婚生活を5年過ごした

私と夫は結婚して5年が経つ。思い起こせば毎日が喧嘩口論の連続で、毎回「今度こそ離婚してやる」と息巻いては沈静化するジェットコースターのような5年間だった。
価値観の不一致という言葉で離婚する夫婦が多い中、まさに私達は価値観が合わない2人なのだ。ではなぜ結婚に至ったのか?
それは紛れもなく価値観の不一致が決め手だった。
よく言う「自分が持っていない物を持っている人」同士で惹かれ合ったのだ。

妻である私は感情の塊である。良く言えば「感情豊かで情に厚い、アーティスト気質」悪く言えば「感情の起伏と思い込みが激しく、無駄に繊細でこだわりが強い神経質」
一方の夫は良く言えば「冷静で無駄を嫌う、理路整然とした頭脳派」悪く言えば「生活にも対人関係にも無頓着で他人の感情を汲み取ることのできない冷酷人間」一緒なのは超のつく程、頑固者同士だというところ。
自分でもこんな二人が上手く行くはずがなかろうと思う。でも何だかんだで5年経っても離婚には至っていない。

「所詮夫婦は赤の他人」論から導き出した私たちの進むべきベクトル

3年前に娘が産まれてからは地獄のような毎日だった。元来の性格に産後クライシスが重なって、私の感情は荒れに荒れていた。娘は可愛い、お世話も大変だがやり甲斐があった。
でも夫は違っていた。悪い意味で「今まで通り」だったのだ。育児の喜びや不安を共有できない。私はそれが悲しくて仕方がなかった。
ついにはストレスからか、自律神経失調症になり、病院にも通うようになった。

つい先日、些細な口論から火が付き、「今後私達はどうすればお互いがより良い人生を送れるのか」を話し合う機会があった。結論によっては別々の人生を歩む事も辞さない。そんな瀬戸際の話し合いだった。一生分かと思うほどの話し合いを重ねに重ね、二人が導き出した答えは「夫婦はあくまで他人」ということだった。
冷めた意味ではなく、お互いを尊重する上で大切なキーワードとしてだ。
深く深くお互いの思いを話し合い、言葉が足りなかった部分を補い合った。
私は言わずとも分かると思っていたし、夫は言わないと言うことは容認していると思っていた。
私は被害妄想が強く、夫の何気ない一言に過剰に反応しすぎていたし、夫は他者の立場になって発言する事が苦手ということが解った。
私達は心のどこかでお互いに自分と同じ価値観を押し付けあっていたのだ。
夫婦といえど、生まれも育ちも全く違う他人だということを忘れかけていた。いや、夫婦という肩書に甘えていたのかもしれない。

私達は価値観の不一致を諦めるのではなく、尊重し、歩み寄り、補い合おうと結論を出した。
問題が起これば非難しあうのではなく、どうすればお互いが気持ちよく過ごせるかを一番に考える。怒りを溜め込むのではなく、怒りのパワーを問題解決へのチャンスだと思うこと。
だって好きで結婚して家族になったのだからお互い前を向くしかない。

夫婦の醍醐味、それは価値観の不一致を深く理解すること

中には一度も喧嘩になったことのない、価値観がピッタリと一致した夫婦もいるだろう。でも私達はそういう相手を選ばなかった。忘れかけていたが、お互いにない部分を羨ましいと思い、尊敬し合って結ばれた凸凹夫婦なのだから。

あくまでも他人同士がどうやって折り合いをつけて前へ進んで行くか。
前途多難な二人三脚だが、凸凹夫婦の私達にとってはそれがお似合いだと思う。
結婚生活はトライアンドエラー。傷つき許しその都度お互いを理解し合う。他にこんな深い付き合いのできる他人はいるだろうか。それこそ結婚の、そして夫婦の醍醐味だと私は感じている。