2年前の6月、わたしは出産についてこう綴った。「“孫を抱いてほしい”。その気持ち以上に、自分の子を愛せる自信がない」と。この気持ちが大きく変わったのは、祖父の「その瞬間」を見守ったつい先日の出来事だった。

祖父はすごい人だった。優秀で勉強熱心で知識豊富で、長崎の被爆者であり、ワシントンへの転勤経験があり、たくさんの経験からか常にどっしりと構えており、品のある人だった。医師に「もう今日、明日には…」と言われてから5日間、孫が全員会いに来るのを待ち、最期の日は祖母が病室に到着するのを待ち、祖母が声をかけると静かに旅立った。

死ぬタイミングまで自分で選んだようだった。

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危篤状態になってからの祖父はずっと、起きているのか寝ているのか、意識はあるのかないのか分からない状態だった。それでも今日は暑いねと話しかけたり、祖父の好きなカーペンターズを聴かせたり、コーヒーの香りを嗅がせたり、祖父が育てたきゅうりを収穫して持っていき触らせたりと、少しでも日常を過ごせるよう工夫した。

祖父は、イベントを企画するのが好きだった。夏には祖父母宅の庭でバーベキューをしたり、クリスマスにはクリスマスパーティーをしたり、夏みかんの数当てゲームもした。
夏みかんの数当てゲームとは、祖父母宅の庭にある大きな木に実った夏みかんの数を親戚全員が目視で数えて、収穫時に答え合わせをし、順位を競うというもの。
従兄弟が「お邪魔しまーす!夏みかん数えに来ましたー!」と祖父母宅に突撃してきたりして、きっと一般的にはおかしな光景だと思うけど、わたしたちにとっては毎年恒例のイベントだった。

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祖父は親戚が集まっている時、自ら会話に入っていくような人ではなかった。寡黙というわけではなく、みんなが楽しんでいるのをニコニコ眺めているような人だった。

だから祖父が危篤になってからも、祖父に会いにきた従兄弟たちと最近の話をしたり、みんなでおにぎりやお菓子を食べたりした。死にそうな人間の前ですることではないかもしれないけど、多分祖父はあの空間が大好きだったと思う。

従兄弟たちに会うのは数年ぶりだった。一番上の従兄弟は33歳で仕事柄全国を飛び回っていたり、他の従兄弟も結婚していたり県外にいたりで、なかなか会えていなかったから。

祖父が、またみんなに会える機会を作ってくれた。

祖父がいた緩和ケア病棟は、個室だったこともあって夜中でも面会が可能で、一度に病室に入れる人数にも制限がなかった。親族が各地から駆けつけ、生きているうちに本当に多くの人とお別れができ、本当に本当に多くの人に見守られながらその瞬間を迎えた。

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わたしは母と「自分が死ぬ時、こんなにたくさん会いにきてくれるかな」と笑いながら話した。その時、わたしは小学生の頃から描いていた将来像が大きく変わった。

今までは、「自分の子供は愛せないだろうから要らない」「周りの人が死んでいく姿を見たくないから、1人で生きて、30歳あたりで自殺する」と、長いことずっとそう考えてきた。
でも大勢に看取られる祖父を見て、子供を作ろうと思った。

それはわたしが大勢に看取られたいというわけではなく、いずれ自分の両親を看取るとき、祖父のように大勢の人に見守られながら、時にはワイワイガヤガヤしながら、寂しい思いをせずにその瞬間を迎えてほしいと思ったから。

祖父は最後までわたしたちに多くのことを学ばせてくれた。人が死にゆくところを見せてくれ、緩和ケア病棟の温かさを教えてくれ、わたしの人生観まで変えてしまった。やっぱりこの人は、すごい人だ。