「おかえりなさい」がわからない。
日本語のあいさつで一番難解だとすら思う。
私にとって帰る場所とは家なのだ。家がゴール、その途中は全部帰路でしかない。
だから「おかえり」は玄関を開けて、母に言うこと。帰路で「おかえりなさい」はなんか違うのだ。
上述のような話を以前小学校からの友達とした。話を振ってきたのは友人のほうだったのだけれど、言われてみれば確かにあの頃の私は「おかえり」に居心地の悪さを感じていた。
集団で下校していると、地元の人に「おかえりなさい」と声をかけられる。これは、よく知らない人からも、誰誰ちゃんのお母さんからもなのだ。あのとき、私のすべき挨拶はなんだったのだろう。もし叶うなら、当時どういった返答をしていたのかアンケートを取りたいぐらいに気になっている。
道中の「おかえり」に納得ができるか否か、道中の「おかえり」に代わる言葉はないのか、道中の「おかえり」への返答は?
ただ、こんなことでアンケートを集計するほど労力を本当に割けるのかという疑問も残るので、まずここに一石を投じることで、誰かが興味を持ってくれたら嬉しい。
以下は、私が「おかえり」の返答について思考をめぐらせ、文に起こしたものだ。
◎ ◎
「ただいま」。
これはなんか違うという拒否反応がある。
「ただいま」とは私にとって玄関を開けたときにいう言葉。学校の遠足時などで学校に着いて言うだとか、そういうシチュエーションには違和感がない。ただ、帰路には違うのだ。
私にとっての「おかえり」と同じで、家に着いてない、ゴールに未達成の状態に適しているかというと……。
「ただいま帰っている途中です」と「ただいま」を取れない。
「ただいま」はやっぱり、「ただいま帰りました」で、到着していない動的状態には適していないように感じられる。
会釈。
当時は恐らく実際にこうしていたような気がする。
しかし、大人になった今、近隣住民が知らない小学生に幾分かの勇気を出して挨拶をしているのにこれは不愛想すぎたのではとも思うようになった。困りがちにぺこりとした姿を見た大人は、もっと困ったのではないだろうか。
幾分かの勇気を踏みにじる行為だったのでは、次の勇気をなくしてしまったのではないか。
◎ ◎
……とこんな感じである。
いずれにしても私がもう小学生になることはないのだ。仕事から帰ってきても、道中知り合いに「おかえりなさい」と声をかけられるなんてことはない。
もっと今気にすべきこと。
それは、私が近隣の住民として小学生に挨拶をするべきか、ということ。
当時の自分は正直困ったし、昨今の事情的に声をかけるべきではないのでは?という意見にかなり傾いている。ただ、家庭や学校だけではなく、地域とのつながりがあなたにあること、居場所があること、助けを求められる大人がそこにいることを伝える手段として挨拶はナシではない(かなり婉曲的だが)。
帰る場所を点として認識している私にとって「おかえり」は悩ましい問題なのだけれど、もし小学生に挨拶をされることがあったとしたのなら。
私はあのとき返せなかった分の「おかえり」を伝えたい。