体育の授業が大嫌いだ。
走るのが遅い、逆上がりができない、跳び箱が飛べないという理由から出来損ないの烙印を押される。特に小学生だと、それだけでスクールカーストが下がる。どんくさい奴、とあからさまに見られる。
やればできる、とがなりたてる体育教師も嫌い。できない人の気持ちをこれっぽっちもわかっていない。
やってもできないんだ、こっちは。
能力が足りないことを、やる気がないと決めつけるんじゃない。

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小学校の6年間、毎年秋にマラソン大会があった。これが嫌で嫌で仕方がなかった。
長い距離を走るなんて、苦しいだけ。しかも、マラソン大会が近づくと体育の授業でグラウンド10周を走らされる。本番直前には、同じコースを2回も走らされる。
この予行練習ともいえる、同じコースを走るときはタイムを測ることになっていた。1回目より2回目。2回目より本番が早くなるように、と体育教師が言っていた。タイムは紙に記録するのでよく頑張るように、とも。

運動が嫌いだったが、私は真面目だったのでちゃんと走った。予行練習からして下から数えた方が早い順位だったが、1回目より2回目の方が速く走れた。
しかし、本番は一番遅いタイムだった。緊張でお腹が痛くなって、走るどころではなかったのだ。マラソン大会本番は、保護者や近隣住民がコースの脇に立ち応援してくれる。走って苦しんでいる顔を大勢の人に見られるのか、と走る前から精神的に限界だったのだ。

そしてタイムが落ちた私に下された評価は、一番下のC。
ちなみに、予行練習でスタートとゴール以外をほぼ歩き、本番だけ真面目に走った子の評価はAだった。
腑に落ちない。私の評価には納得しているが。しかし、あの子の記録は明らかに練習は歩いたと分かるタイムだったろうに。
私もそうしておけば良かった。真面目に走った分、無駄に苦しい思いをしてしまった。
これが決定的な負の記憶となり、体育ひいては運動がもっと嫌いになった。

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「スポーツは生涯の友です」
保健体育の授業でそういうことを習う。体育教師が普段の怒鳴り声を引っ込め、したり顔でご高説を宣う。健康のため、他者とのコミュニケーション、心身を健やかにするスポーツを生涯楽しみなさい、と。
できないことが悪で、苦しくて、時には他者と競争しなければならないことをどう楽しめと言うのだろう。
とは言えこれは、できなくても良くて、苦しくなくて、マイペースにできる運動があるなら、私にも楽しめるということだ。あと、他人が評価をつけないものがいい。思いつかないし探す気がわかないくらい、運動が嫌いだからしないけど。
今世、私と運動には縁がなかった。
ただ、運動をする人が私でないのなら、心は穏やかだ。スポーツ選手が素晴らしいパフォーマンスをしたり、グラウンドで学生が野球やサッカーに励んだりするのは応援して見ていられる。
なら、それでいいんじゃないか。運動は、するのが好きな人がすればいい。
私は見る専でいようと思う。