「銀行は、景気がいい時代は経済学部出身者を採るが、不景気になると理学部の人間を欲しがる」と、高校の数学の先生は言った。理系でないと就職に苦労するし、親も、暗に理系に進むことを勧めた。

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ところが、高2で理系のクラスに入ってみて、つくづく自分は向いていないということに気付く。まず、虚数というものでつまづいた。ある数の二乗は必ず正の数になる、というのが中学までの大前提だったのに、二乗しても負の数になるものがあるという。それは、イマジナリーナンバーといって、想像上の世界にあるらしいのだが、私はついていけなかった。

それとは反対に、国語は放っておいても出来た。考えてみれば、私は小さい頃から作文や読書が好きで得意だったのだ。国語の先生は、人文系に進むことを強く勧めてくれ、私の親にもかけあってくれた。子どもの適性を見極めるのも親の役目だと思うのだが、親の希望を押し付けていたことを、この時ばかりは親も省みたようだった。

私の高校では、文転といって、理系に行っても合わなかった子は、高3時に文系に変われた。ちなみに、この逆の、理転という措置がないことから分かるように、学校側も、理系の方が難しいという認識なのだろう。

文系クラスの子たちは、文転してきた子には冷たい。見栄を張って理系にいったのに、結局ついていけなかったんでしょ、自分の能力を過大に見積もっていたんだね、という感じか。多少の気まずさはあったけど、私は文系クラスで、本来の自分を取り戻して、伸びのび勉強した。

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私は今でも不思議に思う。あの時、あの国語の先生に出会わなかったら、私の人生はどうなっていたのだろうと。この先生は、私は文学に向いていると言い当てた人である。私は半信半疑で、先生に対し、生意気にも、「どうしてそんな無責任なことが言えるのか?」と聞いた。

けれど、先生は「あなたは自分で気づいていないだけだ」と譲らなかった。そして、平野啓一郎の『日蝕』や江國香織の『きらきらひかる』といった小説を教えてくれた。私はその世界観にドンピシャにはまった。

国語の先生は、文学という割り切れないものを相手にしているからか、人間への理解が寛容で、生徒を切り捨てるということがなかった。私もずいぶん薫陶を受けたように思う。私は旧帝大の文学部に進んで日本文学を専攻し、小説のコンクールで入選することになるのだが、まさしく、先生の御慧眼恐るべし、である。

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しかし、文学部というのは、就職には不利で、文学は社会の何の役に立つのか? と聞かれれば、返答に窮する。当時、リケジョが流行語になり、リケジョは、垢抜けて可愛いだけでなく、よい企業に就職できて、安定した稼ぎが得られるので、婚活市場でも引く手あまただった。

私は理系の人への羨望と劣等感がないまぜになって、心の中がぐちゃぐちゃに乱れた。それでも大学で文学を学んだ収穫もあった。様々な文学作品に触れて、いくら科学技術が進歩しても、人の心は千年以上前から同じであり、今自分が悩んでいることも、取るに足りないありふれたものに過ぎないのだと知った。自分の抱える苦しさは、自分ひとりのものではなく、人間がずっと繰り返してきた普遍的なものであると思うと、少し楽になれた。

社会に出て、私が話していて魅力的だなと思う人は、文理の壁などやすやすと乗り越えて、理系であっても文系の知識も深かったり、またその逆であったりする人だ。そういう人の話には奥行きがある。学生時代は、文系か理系かということは一大事だったが、そんな区分は単なる便宜的なものに過ぎない気もするし、早い時期から自分は文系・理系と決めつけずに、幅広く学ぶことも大事だと思う。