コロナ禍で、一人暮らしの家でオンライン講義を受けながら、「私の本当にやりたかったことってなんだったっけ?」という思いがよぎった。これまでも実は何回も感じていて、その度に見て見ぬふりをしていたが、この時ばかりは向き合わざるを得なかった。

女子なのに理系に感じたステータス。大学進学で気付いた自分の興味

高校生の頃、数Ⅲと物理が履修できないのが癪で、迷わず理系を選んだ。
国語は得意だったが、文系に進んでも特にこれといってやりたいことはないし、理系ってなんだかかっこいい。そんな曖昧な動機だった。

ちょうどリケジョという言葉が流行った時期でもあり、女子なのに理系である、ということにステータスを感じていたのである。田舎のなんちゃって進学校で、どの教科もそこそこの成績だったので、特に理系であることに困っていなかったし、むしろ理系クラスは文系クラスより落ち着いていて居心地がよかった。

とある本の影響で、宇宙に興味を持つようになったので、大学の志望校は理学部で地学を学べる学科にした。
しかし、である。辛い辛い受験を終え、なんとか合格をいただいて、大学に入ってほどなくして、高校までの文系科目と、大学での文系科目が全く違うことを知った。

そして、自分の文系科目にそこまで興味が持てないという思いが全く見当外れであることに気づいた。つまり、数学や物理学より、教育学や社会学や文化人類学に興味を惹かれるのである。

学びたいことができている満足感と「このままでいいの?」の葛藤

ところが、当時は文系科目への興味はなんとなく心の奥底にあるくらいにとどめて、ことさら直視しようとしなかった。それは、理系に進んだというプライドがあったからかもしれないし、サークル活動に忙しく、そこまで気が回らなかったからかもしれない。もしくは、幸いにも教職課程を履修できたので、ある意味文系科目も勉強できていたからかもしれない。

もちろん、専門である地学の科目への興味が全く失われていたわけではない。おもしろく興味深い講義もあったし、自分が学びたいと思っていたことができているという満足感もあった。そして、周りのクラスメイトも地学に興味のある人たちばかりで話が弾んだ。

そんなこんなで、それほどフラストレーションを溜めずに(といっても、学期末のテスト期間は、科目が多すぎる、と友人たちとひどく文句をいいながら勉強していたが)、楽しく大学生活を送っていた。

2020年の3月、3年生になる直前に、ご存知のとおり日本でも新型コロナウイルスが流行し始めた。それ以降大学に行くことはなくなり、サークル活動も制限されるようになった。
何もできずに、家でひとり過ごす時間が増えた。静かな空間で、ふと、「私はこのままでいいのだろうか。何がしたかったのか」と思い巡らすようになった。

立ち止まった経験は、何らかの形で意味をなしていくと信じている

3年生になり、そろそろ進路を定めなければと無意識に焦っていたのだとも思う。クラスメイトの9割は、卒業後大学院に進む。そのため、私も大学院までいくのだろうとなんとなく思っていた。かっこいいリケジョになるんだろうと思っていた。

しかし、本当にそれでいいのか? 20代の貴重な2年間を、本気で興味の持てていない、のめり込めていないことに充ててしまっていいのだろうか?それなら就職したほうがマシなのではないか。そんな思いが心の中で渦巻いていた。

1年間悩んだ末、大学院には行かないという決断と、学士編入という形で文学部にチャレンジするという決心をした。いわゆる文転である。大学院に行くでも、就職するでもなく、今更ながら、文転するのである。

無事に文学部に進学できたら、また教職を取って、ゆくゆくは高校教諭になりたいと思っている。最初は理系を選んだが、立ち止まって結局文系に進むという経験は、傍から見れば失敗に思えるかもしれない。
しかし、その経験があったからこそ、何かできることがある、その経験は、何らかの形で意味をなしていく、と、私は信じている。