思えば、〇〇ちゃんがやるから私もやる、に塗れた人生だった。

中学生のとき、走ることが全然好きじゃないのに陸上部に入った。一緒に登下校していた友達が入りたいと言って、「明日香も一緒にと言われたので入った。

高校の文化祭実行委員も、クラスで最初にできた友達がやりたいと話していて、明日香も一緒にと言われて参加した。その他、大学のサークル、ボランティア活動など、ほぼ全ての活動を誰かの付き添いで行なっていた。

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フットワークが軽くて流されやすく、そのため常に色々なことに挑戦できていて、すぐ乗っかれるのは自分の長所だと思っていた。でも、大学四年生の春、私は新宿アルタ前で突然号泣してしまった。新宿の映画館に、パンフレットを運んでいる最中のことだった。

映画について学んでいた私は、自分が師事している映画監督の最新作の宣伝部として働いていた。それと同時に就職活動と、自分の卒業制作の準備をしていて、常にへとへとだった。

そんな苦しい中で、どうして私はこんなにたくさんのことを抱えているのかと考えたとき。宣伝に興味はなかったけど友達がひとりで参加するの不安だって言ったから始めたんだったとか、卒業制作も周りの友達がみんな作ってるからと誘われたからとかで作ることにしたとか、就活だって本当は就職なんかしたくないのに親に言われてやってるとか、そういうことに気づいてしまった。

私は自分のことを空っぽな人間だと思った。私は自分で何かを決めることができない。すぐ人のせいにするし、安請け合いするくせに器用じゃなくてすぐいっぱいいっぱいになってしまう。私がやりたいことを自分で決められない。他の人がやりたいことを手伝うことばかりだ。

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私のこの考え方はどこからきているのか?よくよく遡って考えたとき、私は小さい頃1番好きだった絵本を思い出した。「もりのふゆじたく」という本で、主人公のアライグマが1日中森のみんなの冬支度を手伝っていたら自分の冬支度ができず、どうしようと思いながら帰ったら、自分が手伝った仲間たちからお礼の品がたくさん届いており、そのお礼の品で冬を越すことができた、というような話だった。

私はたぶんこのアライグマさんみたいになりたいんだな、とぼんやり思った。誰かに感謝されたり認められないと、自分の価値がわからない……でも、他者基準でしあわせを決めてしまうと、思ったような感謝が得られなかった時に傷ついてしまうし、見返りを求めて誰かに優しくするのは誠実さに欠ける行いだと思った。

それでもそう簡単に生き方を変えることなんてできない。私はいつになったら私の人生の主導権を握れるのだろう。そんなことを考えながら、年をとり、結婚して、いま、妊活を頑張っている。

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私は、今度こそ自分の意思で子どもを産み育てたいと思っている。もし辛いことがあっても、自分が決めたことだ。誰のせいにもしない。誰からも感謝も賞賛もされなくても、私は私の子どもに出会いたいから、諦めずにいたいと思う。

一方で、これ以上のエゴはこの世に存在しないとすら思う。少子高齢化が進むこの国で、どんな未来が待っているのかわからない。なのに新しい命をそこに生み出すことは、大いなるエゴだ。だからこのエゴを通すために、私はどんな痛みにも耐える覚悟だ。お金がなかったら稼ぐ。愛されていないと感じているなら、私の力を全て使って愛そうと思う。子どもの人生を生きる権利は子どもだけのもの。でも、その子を幸せにするのは私の義務だ。言い訳もしない。人のせいにもしない。私は私が決めたことのために全力を尽くす。

ここにきてようやく私は、我を通そうと思う。そう簡単には変われないけど、「あなたのために言ってるのよ」とだけは死んでも言わない親になりたい。

まだ実現していないことについて論じるのは浅はかかもしれない。けれど、本当に自分の意思で決めたことを成し遂げようと考えられるようになった。それだけでも私にとっては、3ミリ進むことに値する。