昔からよく言われていた。「自信があって羨ましい」と。

文字に起こすとなんだか嫌味を言われているように受け取られるかもしれないけど、そう言ってくれた子たちは何らかの含み無しでそう言ってくれていた、と私は思っている(皮肉を込められたこともあるかもしれないけど)
大抵その子達は、自分の自己肯定感の低さに悩んでいた。「どうしたら自己肯定感って高められるのかな」とたびたび聞かれた。

◎          ◎ 

自信、自己肯定感。
確かに高い方だと思う。だって勉強も運動もまあまあ出来たと思うし、部活だっていっつも選抜だった。それに自分の顔も好きな方だし?周りから結構色々褒められて育った方だと思う。自然と、「自分は出来る人間なんだ」と思うようになっていた。

ただ一つ、私はかなり気分に波がある方だった。落ち込むときにとことん落ち込む。
でも、人間である限りは自己肯定感有る無しに関わらず、誰にだって波はあって当然だろうし、普段は明るく自信を持って過ごせている。だから問題ない。そう思っていた。

その日も、落ち込むことがあった。詳細は全然思い出せないけど人間関係のなんかだった気がする。

気分が本当に落ちる時、気道がきゅっと締まって苦しくなる感覚がる。自責の念が脳を焼いているような感がする。

その時ふと思った。「私は空っぽな人間だ」と。「だからうまくいかないんだ」。

◎          ◎ 

思って、すぐに疑問符が浮かんだ。
空っぽ。……空っぽ?この私が?

何をやってもそこそこにこなしてきて、小さいころからずっと褒められてきた私が?それを手にするために努力だって怠らなかった私が、空っぽなの?

自問を繰り返して、やっと気が付いた。

私、ずっと「学歴が~」とか「スペックが~」とか「周りからの評価が~」とかばっかり考えてる。ずっとずっとそれだけに縋って、それが無くなることを恐れている。見せかけのスペックだけに囚われている人間が空っぽ以外に何だというのだろうか。

それが無くなったら、私には何もない。

ネットニュースか何かで見たことがある。「自己肯定感の低い人ほど周りと比較したり、攻撃したりする」のだと。
それを見て私は「こうはなりたくないなあ」とか考えていた。でも本当は一番私が周りからの評価を気にしていた。

◎          ◎ 

私は確かに自分が積み重ねてきた実績に自覚的だった。よくやってきたと思う。

でもそれは「自己」を「肯定」することにまるで繋がっていなかった。内面とか考え方とか、「自分そのもの」に近い部分のことは大嫌いで、それを覆い隠すように周りの賞賛を追い求めてごまかした。そしてそういう自分がまた大嫌いだった。

私は空っぽだ。「自分の内面を肯定出来ない」ということから目を逸らし続けて、「私には自信もあるし自己肯定感もある」と自分すらだまし続けていた。

思えばたくさん嫌いなところがあった。無駄に高いプライド故に、自分に素直になれなかった。いつも「これ、周りにはどう思われるかな」と考えていた。それのせいで取り逃した、大切になるはずだった感情や経験が本当にたくさんあると思う。だから内心、自分の感情に素直な人が凄く羨ましくて凄く嫉妬した。

悔しい。もっと早く気が付きたかった。見せかけの自信でコーティングなんかしなければ、もっと早く自分自身の心の傷に気が付けていた。
そう思った時、凄く長い時間を無駄にしてしまったような、そんな喪失感・絶望感に苛まれた。悔しい。やっぱり自分が嫌いだ。

◎          ◎ 

でも、気が付いてしまった以上はもう見ないふりは出来ない。痛みが伴っても向き合わなきゃいけないことがある。きっと周りのみんなはもっと早く自身と向き合って、成長していたんだろう。凄いなあ。

遅いスタートになったけど、やるしかない。自分のことを少しでも好きになれるように。