突然ですが、私はLGBTQ+(性的マイノリティ)の当事者であることを自認しています。
女性として生まれてはいますが、私の心は男女のどちらでもありません。それが理由で、私は幼い頃から「かわいい」と言われることに抵抗を覚えていました。
「かわいい」は女性に向けた言葉。私にはその考えが強くあったのです。
実際、幼稚園に通っていたころも小学生だったころも、かわいいと言われているのは女子ばかりで、男子にその言葉がかけられることはほとんどなかったことだと記憶しています。そして、その言葉の使われる先が性別によって振り分けられているということに対して疑いの声をあげるような人は、そこにはいませんでした。
自分が女子であるならば、私はかわいくなければならないのだ。そう考えて、私はずいぶん無理をして、かわいくあろうと取り繕ってきたような気がしています。
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そんな私に転機が訪れたのは、中学生の頃でした。LGBTQ+の存在を知り、私もその当事者なのかもしれないと考え始めたのです。
ただ初めは、私は自分が男性になりたいものだと思い込んでいました。無理に男性らしい振る舞いをしてみたり、かっこいいと言われるような努力を重ねたりすることが増えたのです。
しかしそれも、当時の私にとっては負担であったようで、次第に生きづらさを強く自覚するようになっていきました。
そんなある日、男性らしさを追及して疲弊していた私に、同級生が何気なく「かわいい」と言ってくれました。私はその言葉を聞いて、まるで温かいスープを口にしたときのような、どこか懐かしさのある安心を覚えたのです。つまり私は、かわいいと言われることを避けようとするあまり、自己像を大きく歪めてしまっていたということなのでしょう。
そのときになって初めて、私はかわいいという言葉が、決して女性のためだけのものではないのでは、と考え始めたのです。
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たとえば、サブカルチャーにおいては、男性のアイドルやキャラクターがかわいいと言われることは何らおかしなことではありません。そして、男性がかわいいと言われることがおかしいことではないというのは、一般の人々にも当てはまることなのではないでしょうか。
そう考えるようになってから、私はかわいいと言われることに対して、抵抗をあまり感じなくなりました。
私は、「かわいい」との距離感とは、性別観ではなく「人としての在り方」に関することだと考えています。それぞれの表現したい「自分自身」として、かわいいを選ぶのか、違う自分を目指すのか。
それぞれが異なる「かわいい」像をもつことで、きっとこの世界の「かわいい」は、より心地のよいものへ変わっていくのではないでしょうか。
そして「かわいい」という言葉が、私のようなマイノリティ当事者が使うのにも抵抗のない、フラットな言葉へと変わっていくのではないかと、私は信じているのです。