「民主主義は最悪の政治制度といえる。これまで試みられてきた、他の全ての政治体制を除けばだが」とイギリスの政治家チャーチルは言ったそうだ

これを知った大学入学当初は「おいおい、最悪?最高の間違いじゃないか?日本を始め多くの国が民主主義を採用しているじゃないか!」そう吠えた。みんなが選んでいるものが正解であり、圧倒的に良いもので疑いようもないのだと。

だが卒業も近づく今、私は静かにこの言葉を自分の中で問い直すことが出来る。なぜチャーチルは民主主義を最悪だと形容したのだろうか。民主主義の問題点はなんだろうか。もはや、私の中でみんなが選ぶことが正解だとは言えなくなった。

東京都教育委員会のリーフレットによればチャーチルのこの発言は言い換えると、「民主主義には問題点が多数あるが他よりマシ」と言うことらしい。例えば民主主義下でナチス政権が生まれたことなどを始め、民主主義は万能ではないとうことだ。

日本も民主主義だが、政治家を信用できない・意思決定に時間がかかるなど問題を抱えている。つまり民主主義が選ばれているのは、まあ絶対王政とかよりはマシかぁという程度なのだ。

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大学1年が終わる頃。「“マシ”かぁ、“マシ”でいいのかなぁ」何だかスッキリしなくて私は腕を組んだ。

学ぶということは、知識を身につけることで物事を白黒はっきりさせ、最適解を見つけることだと思っていたからだ。そう思うのは、高校までの学びには正解があったからだろう。理系科目の数学や化学はもちろん、表現である現代文や経済関係を扱う地歴公民まで。正解をいくつ身につけられるかによって優秀かそうでないかが決められた。

でも大学に入ってからは、明確な正解を与えられることは少なかった。それよりも、求められるのは問題を探究し続けることだ。特に経済学の分野では、いくつも学派があるものだから、同じ大学なのに教授によって全く反対のことを言ったりする。また立場をはっきり示さない教授も多い。

腕を組んで、唸って。足まで組んでみて、頭を傾げる。さながら、オーギュスト・ロダンの「考える人」のようなポーズをとってしまう。

ふと足元を見ると、答えが見つかるかどうかも分からない途方もない道が広がっている。真っ暗闇の中、曲がりくねっていて、もはや先が霞んで見えない道だ。明らかに大学の数年間で特定の問題の正解を見つけるのは不可能だと直感が警告する。それが大学での学びだ。

そんなことを続けていると、「では、自分はなぜ大学で学んでいるんだろうか?」と思い悩み始める。高校までは正解をたくさん身につけ優秀であることが良いとされたから、それを追ってきた。だがそんな価値観は大学でぶち壊された。

再び考える人のポーズ。誰も答え与えてくれない。けれど、この答えは自分の中にあると感じられた。

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まず正解がないことを学んで得たメリットを考えた。いくつかある

知識の幅が広くなったこと、考える力がついたこと、完璧を求めすぎなくなったこと、人と自分を比較して落ち込む機会が減ったこと。何だか経済学部なのに経済と直結したメリットがないことに呆れてしまう。特に後半二つに関しては、思ったよりも世の中に正解がない問題が多すぎて、人間に期待しなくなっただけだ。

雑にまとめると「世の中には考えても白黒はっきりしないグレーゾーンが多いので、他者が決める“正解や答え”に期待してもしょうがない」とうことだ。諦めとも言うかもしれない。ちょっと響きが暗すぎるだろうか?

だが、不思議なことに私自身はとてもポジティブな視点からこのことを言っている。何故なら、周囲に期待する他者軸から、自身の内側に答えを求める自分軸に思考が変わったからだ。チャーチルの言ったことが正解かどうかは、みんなが選ぶからではなく、自分が選ぶかどうかで決めるべきなのだ。

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未だにスッキリはしない。だが足を組むのはやめる。しっかりと自分の足で立って、腕を組んで、真っ直ぐ見据える。自分が考える正解を、自分の追い求めたいことを。

そうすると不思議なことに真っ直ぐな一本道が見えてくる。終着点は相変わらず見えないけれど、北海道の国道くらい広くてしっかりした道だ。

遠回りながら大学で私は、この道に気づき、この道を歩む覚悟を得た。グレーな世界で自分だけの正解で舗装した道を歩く。私が大学で学んできた成果はこれだ。少なくとも、みんなの正解で敷き詰められた道よりマシだと思わないか?