私の友人がマッチングアプリで出会った人と結婚した。相手は東大卒で大手企業に勤める男性である。そのことを母に伝えると、「今は、東大出の人でもそういうので結婚するんだねぇ」と言った。

どうやら親世代は、アプリを出会い系サイトと混同している。出会い系サイトは規制する法律でテレビCMは認められていなかったけど、アプリのCMは最近よく流れている。カフェなどで、隣に座っている男女が、おそらくアプリで知り合って今日は初対面なんだろうなぁという、ぎこちない会話を交わしているのにも遭遇する。

もっと健全で、経歴を詐称していたりヤリモクだったりした場合、通報できるシステムになっていること、そもそも恋愛はコスパもタイパも悪いので、効率よく相性のよい人に出会うためのツールなのだということを説明しても、あまり分かってもらえない。

そのうえ母が驚いたのは、披露宴のふたりの馴れ初めの紹介で、アプリで知り合ったことを隠さず話したことだという。「合コンで出会ったとかっていうのは、友人の紹介でとか、そこは上手く言い換えていたけどね」とのこと。

自然な出会いでないと恥ずかしいという意識があるのだろうか。本来、出会いに自然も不自然もないはずなのに。

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最近、レストランで食事をしていたら、隣に座った母世代の女性二人が、自分の子がアプリで出会った人と結婚することの是非について話し込んでい

「私たちの時代は、お見合いがあったじゃない?でも、今の若い人は大変よね。誰もそんなお節介焼く人がいなくなって、自力で何とかしなくちゃいけないんだから」
「お見合いは間に人が入っているわけじゃない?それで、親戚の誰それさんとか、夫の職場の部下とか、信頼できる人を紹介する。でも、アプリにはそういう仲立ちになる人がいないから、やっぱりちょっとねぇ」
「でも、間に入っているのが人じゃなくて機械な方が、気楽かも。お見合いってほら、仲人さんやお相手の顔も立てなくちゃいけないから気を遣うじゃない?でも、アプリなら後腐れないじゃない」

なるほどと聞き入ってしまった。ただ、「アプリの方が気楽」という点には与しない。というのも、アプリは自分の顔写真やプロフィールに対し「いいね」が付くので、自分の商品価値が残酷なまで分かってしまう。私は自分の商品価値の低さを思い知らされているので、その上さらに自分を傷つけたくない気もした。

お見合いは、たとえ断るにしても、「自分にはもったいない相手ですので」など、相手を傷つけない配慮がある。しかし、アプリは容赦がない。以前なら、結婚できないのは「ご縁がない」からだと、「縁」というぼんやりした運命論のせいにできた。しかし、アプリによる市場競争が導入され、婚活は受験や就活同様、努力して勝ち取るものになり、自分の市場価値を突き付けられている気になる。

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就活の写真は専門の写真館で撮るのが常識だが、アプリの写真もプロに撮ってもらう人もいる。

私の年下の知人男性が、「あれは結局、第一印象が勝負で、容姿のいい人が得するシステムだよね」と嘆いていた。ちなみに彼は京大生だ。関西で京大男子といえば絶大なブランド力があり、京都の女子大生は全部京大男子に持っていかれるので、他大の男子に勝ち目はない、とも言われるくらいだ。

それなのに彼はまだ誰とも出会えていない。ずっと男子校で勉強ばかりしてきたので、女性に好かれる髪型や服装などに疎いのだ。

たくさんの「いいね」が付いてモテたいわけじゃない、高望みもしない、ただ、災害や不景気で先行き不透明な時代、手を携えて生きていけるたった一人の人に出会いたい、と言うが、これは一番難しいことかもしれない。