最近友達がマチアプで彼氏ができたという報告をくれた。
少し前には小中の同級生がマチアプで出会った人とゴールインしたという話も聞いた。
「意外と良い人もいるんだよ」
彼らはよくそんな言葉を口にする。
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少しまでは使っていることを後ろめたく思う人が多かった印象だが、コロナ禍あたりを境に人々の認識が変わってきている気がする。
今では20近くも種類があり、比較サイトもできているほどだ。私の友人の中には3つのマチアプを使い分けているテクニシャンもいる。
その人が今幸せなのであれば出逢い方がどんな形であってもいいと思うし、もちろんマチアプでの出会いを否定することもない。
でも自分ごととなると、「どんな形でも」というわけにはいかない。
出逢い方にこだわりたいと思ったことはないし、図書館で本を探すことに夢中になっている時に手と手が触れあって……という漫画的シチュエーションに憧れているわけでもない。
ただどういうわけかマチアプでの出会いは求めていないらしい。
インストールしたこともないし、WEB広告で流れてくるときにはなぜサジェストされるのか分からないという気持ちも相まって決まって怪訝な顔をする。
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写真やプロフィールを加工している可能性があるからか?
騙されるかもしれなくて、身の危険を感じたくないからなのか?(……とはいっても「これまでの出逢い方」をしても、少なくとも初めはお互いある程度自分を「作って」いくから結局のところさほど変わりないのでは?とも思うし、かくいう自分も相手を無意識のうちに騙している可能性もある)
マチアプの一体何を私は拒絶しているのだろう。
多分それはそこに「生身の出逢い」がないと感じているからだ。いわば出逢いの入り口のところ。
一度はじめましてをしてからは、「これまでの出逢い」と何の変わりもない。しかも実際に顔を合わせるまでしっかりと吟味して選ぶ時間がある……にもかかわらず、である。
詳しくは分からないが、居住エリアや好みなど各種条件を入力してヒットした人がおすすめとして表示される仕組みだろう。
ディナーのお店を予約する時と同じで、そうすることによってリスクを減らせるだけでなくより自分の好みの人に出逢える確率が上がる。これはとても理にかなっていることだと思う。
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ただそれは人の手によって、ではなくAIによって行われている。
「出逢い」という本来生身の体験に、無機質な人工物が介在することに私はどこかモヤつきを感じているのだろう。
私が思う「生身の出逢い」、それはそこに「偶然性」を孕んでいるもの。
自分の好みに全く当てはまっていなくても、憧れているようなきれいな出逢い方(何をきれいとするかは人によって異なるが)ではなかったとしてもそれでいいし、そういうものを欲している。
想定外のシチュエーションや相手の意外な一面にドキッとしたり、そういう「偶然性」が「出逢い」には必要だと感じているのだろう。
結局のところ私はロマンチストなのかもしれない。