私には、もう一度会いたい人がいる。それは、高校一年の頃同じクラスだった一人の女の子。私は彼女のことを、すーちゃんと呼んでいた。

すーちゃんは、毎日一緒に過ごす、いわゆるイツメンだったというわけではなく、むしろお互いに別々の仲の良い友達がいた。自由に食べるお昼時間でも、近くの輪にいながら別の子と食べていたくらいだ。

かといって、まったく疎遠というわけではなく、気づいたら何かにつけ話しかけたり、時には放課後に街に遊びに行ったり。プリクラを撮ったりクレープを食べたり。体育で同じ種目を選べば一緒にテニスをしたり。なんだかつかず離れず、気が付けば傍にいた。そういう距離感が心地よかった。

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私はきっと、すーちゃんに憧れていた。なぜなら彼女は、天性の愛されキャラを具現化したような人だったからだ。怖い家庭科の女の先生にさえもそのキャラで愛されていたし……。すーちゃんが授業中何か面白いことを発言すれば、クラス中がドッと笑いに包まれるような、そんな魔法のような天性の持ち主だった。
それは男女問わず虜にし、みんななんだかんだすーちゃんと喋りたいと思ってしまうような、ついつい話しかけてしまうような。そんな子がクラスにいたのだ。

私は最初、すーちゃんという存在が衝撃的だった。

彼女は基本的にポジティブで、世界を全く持って斜めから見るとか、そういう邪気のない印象だった。かといって全く芯がないというわけではなく、むしろハードなバドミントン部に入ったり、地元の頭のいい大学に向けて勉強を頑張ったり、男女分け隔てなく優しかったり面白かったり。ちょっとクラスになじみにくいような子にさえも「すーちゃんすーちゃん」といつも慕われているような、そんな明るい性格だった。

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そんな性格だから、周りの子たちと一緒で私も気が付けばすーちゃんに引き寄せられていたのだろうと思う。
何かを話しかけたら、その反応が面白いとか一緒にいて波長が合うとか、そういう簡単な話かもしれないし、もしかしたら彼女の存在の概念が丸ごと憧れだったのかもしれない。今になって思うのは、憧れが九割以上占めていたのではないかなと思う。
私は彼女に「すももちゃん」と呼ばれていた。名前に「もも」が入るから、その名残でつけてくれたのだと思う。「すももちゃん、すももちゃん」と呼ぶ、彼女の癖のある少し高い声を、私は今でも覚えている。

すーちゃんとはそれから、二年生になってクラスが自然と離れ、廊下ですれ違えばどっぷり話す時もあれば、まったくお互い気が付かない日もあって。文化祭などの行事ごとで写真を撮る程度の関係性になり、それからもう卒業以来ずっとあっていない。もうすぐ七年の月日が経とうとしている。

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私は、すーちゃんのどんなところが憧れだったのか、今になって思う。 
それは、自分の軸がしっかりあるというところだ。一見いつも笑顔で、ネガティブなことなんて言わず、誰にでも平等で、何を話しても面白い、そんな一人の女の子。だけど、彼女はどこまでいっても、「すーちゃん」であったし、相手がどうであれ自分をしっかり持って生きていたのではないかと思う。きっと無意識にそれをしていたのだ。
だからこそ、私は今大人になってすーちゃんを時々思い出す時がある。あの子は今どんな人生を送っているのかなとか、周りをどう包み込んでいるのかなとか。辛いこととか、悲しいこととかきっと彼女なりにあるだろう。それをどう捉えて何を考えて、どう対応しているのかな、とか。

それくらい、私は彼女が今も気になっている。彼女の存在は、間違いなく生き方の指標を教えてくれた気がする。どこまでいっても周りがどんな環境であっても、私は私でしかないことを。私は私であり続ければいいということを。
時々社会に染まり、自分が誰だか分からなくなる瞬間がある。泣いている自分、怒っている自分、働いている自分、家に帰って寝ている自分、友達と笑う自分、どの自分も、私は私なのだと考えられるようになった根底にはいつも、すーちゃんが影響している気がする。