マッチングアプリは一度も使ったことがないけれど、マッチング機能がない類似のアプリ(チャットアプリなど)には20代前半の頃よくお世話になっていた。サービスとしては別物ではあるものの、インターネットを介してユーザーが出会いを求めているという大枠は同じだと思う。
◎ ◎
そもそもマッチングアプリというものは、私にとっては少々ハードルが高かった。
運営による管理が行き届いているサービスは大抵顔写真の登録が必須で、万が一知り合いに見られたらと思うとかなり気が引けた。また、恋人探しが主目的というシステムそのものもあまりピンと来なかった。
当時の私は家と職場を往復するだけの毎日にどこか飽き飽きしていて、そのうえ友達も少なく恋人もいなかったから、過ぎていく毎日が退屈でたまらなかった。その日々の単調さに、あるときふと危機感を覚えた。「このままじゃまずい気がする」「生きたまま死んじゃいそう」そんな漠然とした不安から、何か新しいことをしなければと思った。
前述の通り恋人はいなかったけれど、かと言って特別欲しいとも思っていなかった。だから、恋人探しが名目となるマッチングアプリは私が使うべきものではないような気がした。もっと、ラフなコミュニケーションを求めていた。
結果的に好意を持つことになればそれはそれで流れに身を任せようとは思っていたけれど、あくまでそういう展開になったらの話であって、取り立てて恋愛がしたいというわけではなかった。
◎ ◎
そうして、マッチング機能がないがゆえにコミュニケーションの敷居がぐっと低くなるアプリをいくつか使い出すようになった。いいねや足あとなどがきっかけでメッセージのやり取りが始まり、何となく親しくなれば電話をするようになったり、実際に会ってみたりと交流を重ねた。
今となってはもう記憶が薄れている部分もあるけれど、トータルで15人くらいの人と実際に会ってランチやお茶をしたと思う。1回限りだった人もいれば、2〜3回会った人もいた。「良いな」と思って交際に発展したのは2人だった。
日常生活では関わることのない人と話す時間は、良い刺激になった。営業マン、学校の先生、夢を追うアルバイター、大学生、院生など、本当にいろんな人がいた。日々のつまらなさを、少しだけ拭うことができた。こんなに簡単に会えちゃうんだな、と、その即時性にも驚いたけれどそれにも次第に慣れていった。
慣れが生じていたからこそ、待ち合わせ場所で集合後、相手の車で移動している最中に道端に降ろされるという事態に遭遇しても、いたく冷静でいられたのかもしれない。
◎ ◎
あれは7月の暑い日、場所は池袋。
現れた相手は車を近くに路駐していて、ごく自然に助手席へと誘導された。雑多な街の中を走りながらとりとめのない会話を交わすなかで、「どこの駐車場も混んでるだろうからちょっと探してくるね。ここで待ってて。この辺りのどこかの店でランチしよう」とこれもまたごく自然に言われ、ごく自然に車外へと促された。
遠のいていく車の後ろ姿を眺めながら、「まあ、池袋の駅近くじゃ確かに混んでそうだなあ」なんて馬鹿正直に思ったところで「いや、これはおそらく違うか。おそらくというか絶対に違うか」とすぐに判断し直した。仮に空いている駐車場を探すのに手間取ることになったとしても、助手席にいる人間を暑い外にわざわざ放り出す必要は多分そんなにない。要するに、「ナシ」と早々にジャッジされたのだろう。私が、相手から。
待ち合わせ場所にいる相手を一旦物陰から見定めて「ナシ」と思ったらバックれる……といったような話はネットに転がっているアプリ経験者談の中で見たことはあったけれど、それに近しいことを自分が実際にされたのは初めてだった。ただ、悲しさや怒りは思いのほか湧かなくて、「うわー、これが噂のやつか」「こういうことって本当にあるんだな」程度の冷めた感想だった。
◎ ◎
車外に放り出された後はとりあえずそのまま5〜10分待ってみたものの、「いい加減暑い」としびれを切らしてその場を離れた。案の定、相手からはその後一切音沙汰なし。私の予感は大正解のようだった。
チャットアプリにしろマッチングアプリにしろ、いずれもきっと文明の利器で、コミュニケーションの手段を広げるうえで一役買った。特にマッチングアプリは使っている人がどんどん増えていて、今やテレビCMが打たれているほどだ。「ネット上での出会い」に対する偏見はもうずいぶん薄まっているのだろう。
コミュニケーションツールとしては確かに使い勝手が良い。でも、使い勝手が“良すぎる”のも、考えものなのかもしれないとも思う。
サクサクやり取りしてサクサク出会えてしまうがゆえに、何か大切なものが欠落しているような気がする。アプリが便利なのは間違いなかったけれど、同時に寂しさや殺伐とした雰囲気を感じることも少なくなかった。自分も相手も、血の通った「心」を持っているはずなのに。
適度な距離感で使わないと、知らず知らずのうちに疲れてしまったり感情が麻痺してしまったりする。私はそれを身をもって学んだ。同じような感覚を抱いている人が、いまの社会にはきっと多くいるんじゃないだろうか。