たぶん、小学校低学年の時から。
私は、集団の中にいても、どこか一歩引いて、クラスメイトや仲の良い友人たちのことを見ている。自分は、無意識に人の思考や価値観、発言などを勘ぐったり、深読みする癖がある。「あの子は表向き、ああいう発言をするけど、本当はこういう性格。内心はこう思っている」など、人に対して、表面だけにとらわれない、自分なりのその人の見解をひっそり抱いていたりする。
だから、たまに言われる。「あなたは、本当に人の本音をよく見ているね」と。
でも、そんな感受性の強さからか、私はどうしても一人になって頭の中を整理する時間が必要だし、気持ちや考えを言葉にして伝えるのが苦手だ。人間関係でなにか不都合があっても、私は性善説だし、相手を信じたいという思いから、自分の中での相手の行動への解釈を変えたりして、不都合と付き合い、人付き合いしている。
なにかを「受け止める、解釈する(ゆるす)」ということに対しては、長けていると思う。でも、そんな純粋である種、都合よく相手の行動を解釈して付き合ってしまうので、何か自分の要望を主張したり、怒ったりすることが、どうしても苦手だ。
この世界は、どうしても公平に主張しないといけない場面が多々あるのに……。
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これは、もともとの自分の特性もきっとそうだし、でも一番は、平和主義で忖度し合う純粋な女子校育ちという環境が、そうしている気もする。
大人になり、最近は、私はそれを自分のアイデンティティとして、強みとして活用できないか模索しているところだ。
私は人前で泣いたり笑ったりしている先輩、いつもスポットの当たっているクラスメイト、普段冗談ばかり言っている上司……など、その人の「印象」とは裏腹に、その人の本音や本当の悩み、価値観、考え……など、常に無意識に知覚する癖がある。
それもあって、私は本当の意味でその人をよく見ているので、本音を打ち明けられやすかったり、逆に、長所をみつけて言葉にして励ましたりする。
そんなこんなで、私は周囲の人たちとの関係性の中に自分を投影しているので、まわりの仲の良い同僚が怒られていたりするのを見ると、まるで自分のことのように悲しくなったり、ショックだったりする。
しかし、私のこの特性は、脆さでもあり、この混迷な時代には強さでもあると思っている。
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もっと人の表情や語気、放つ言葉に対して、無頓着でいられたら……。「他人は他人、関係ない」と割り切って自立して仕事ができたら……と思うことは、何回かあった。
でも、最近は、共感力があったり、ちゃんと人を見てその人の良さや強みを言葉にして相手に伝えることが、誰かを日常的に励ましたり、温かくすることに繋がってるんだと自覚する機会が増えた。
これは、今いる職場や友人のおかげだと思う。
自分が誰かを気にかけ、行動することは、「恩送り」であり、その恩を受け取った相手が、今度は自分に対してもポジティブな感情や影響を還元してくれる……という、そんなエコシステムのような、人間同士のポジティブな繋がりを感じられている。
誰かの顔色を窺ったり、相手のことを無意識に自分ごとのように感じ取ったりすることは、決して苦しいことばかりではない。
この先行き不透明な時代に、豊かな人間関係をつむぎ、自分が苦しんだ分、人の辛さもわかり、それを労って分かち合いながら関係性を育てていける、そんな力でもあると思っている。