昨年未遂に終わった自死だが、希死念慮は依然としてある。特に夏の終わりは橋や高層ビルを見るだけで危ない。周りは「まだ若いのになんでそんなこと考えるの」とか言うけれど、いつだって一寸先は闇だからだ。

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そんな私だが、今年は作品を書き残すことで生命を延長する戦略に出た。

でもすばる文学賞は第一次選考すら通過しなかったし、かがみよかがみの女子大生の日イベでも入賞しなかったので自分の才能・体験力のなさを書き記した「現実」という貼り紙をデコに貼り付けられたような気分だった。

なんか賞がもらえたら、自分が生きていていいような気がちょいとだけするから賞がほしい。もう正直、カオナシのようになっている。カオナシはきっと愛が欲しくてああなったのだろうけれど、「私は生きていて良いですよ」の証として賞がほしい。

ただの消費者のままで終える人生は御免だ。かと言って今更社会のドラマツルギーに参加できるわけもない。家事も退屈になってきて、同じような生活を繰り広げながら生きることは本当に辛い。主婦がよろめく(=不倫)のは、きっとこのような味気ない日常が自動的に続いていく様を呆然と眺めているから、刺激を求めてのことなのだろう。私はよろめくつもりは毛頭ないものの、ちょっと気持ちがわかった。

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夢や希望というにんじんを目の前にぶら下げられてそれを必死に追いかけて食べようとしているお馬さんのように、私は文章をただモーレツに書いている。源氏物語の内容もよく知らないし、放蕩無頼な昭和の男性作家の影響を受けてうかつに性描写を入れてしまうし、マトモな文学作品が書けないからきっと今後も一つも賞を取らずに終わるのだろう。

生命の延長処置としての文学作品なわけだけれど、それは果たして人の心に届くのだろうか?
私の独りよがり、ただの個人的な妄想を作品に閉じ込めたとして審査員のお眼鏡にかなうわけもなし。そんなことばかり考えて不安になって夜も眠れない。

一応私は作家を目指す家事手伝いという、令和の現代じゃあり得ないような不安定な社会的立場にいる。でも私のままでいるだけで超フレックスだ。
TikTokやYouTubeなど動画コンテンツが優勢になってきている時代だというのにいまだに気軽なステップひとつ踏めないし、私だけ時代に取り残されている気がする。早く近代化したい。

ダンスは上手く踊れないけれど、表拍と裏拍の概念は理解している面倒臭いオタク、それが私だ。

小学生の時からビレバンのエログロコーナーに入り浸って、真っ暗な未来を打ち消すように夜中に漫画やアニメを観ていたのが懐かしい。文化に身を委ねて現実逃避する癖はあれから何も変わっていない。

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前に某ギャルタレントが「地元に友達がいない人は性格がやばい」などと発言していたように、きっと世間の人達は他者と時間という財産を分け合いっこして仲良く生きているのだろう。ある意味共産主義かもしれない。

私は自分の好きなことを好きな時間に一人でしていたいマスタベーション人間なので、そのように性格が良くなることは出来なさそうである。
さて、今夜も思想ばっかり強くて眠れない気配がしたので、寝る前に8kmラン&ウォークをしてきた。

それでも目はランランギンギンバキバキである。私が安心して眠りにつけるようになる未来は来るのだろうか?