父が先日、74歳で定年退職を迎えた。そのお祝いに家族4人でレストランに出かけることになった。お店は以前姉がとある男性俳優に遭遇したことのある代々木上原のイタリアンに決まった。

◎          ◎ 

約1年前に実家を出た私は、代々木上原駅の改札前で家族と待ち合わせた。私以外の家族3人と「待ち合わせをする」ということになんとなくまだ慣れない。お店に向かうまでの間、母から最近買っちゃったもの、の話を聞かされる。なんとなく恒例な気がする。

今回はMARIHAのワンピースを買ったらしい。今日着ている赤いワンピースも最近買ったらしい。

母はこれ買ったのと自慢げな時と、小声で買っちゃったと伝えてくる時の2種類ある。そんな話を聞きながら徒歩5分ほどでお店に着いた。

私たちが案内された席の横には、おばあちゃまとその孫らしき女性と、もう少し幼い男の子、そんな家族がすでに食事を始めていた。なんとなくさすが代々木上原、感があった。席に着いて、てっきり予約していたコースが順番に出てくるかと思いきや、料理の予約はまだ何もしていなかったらしい。

お店を予約した姉と、てっきりコースを予約していると思い込んでいた私と母の間に、ほんの少しすれ違いの空気が流れる。父は何も感じていない。そんなことがたまにある。結局6品のコースと、それぞれ飲み物を頼んだ。

◎          ◎ 

少し暑さを感じるようになった5月中頃、冷たいビールを流し込み、私たちはいつものごとく今やっているドラマや最近見た映画、そこに出てくる俳優の話になった。なにが面白いとか面白くないとか、あの俳優はいまいちだとか、あの人が好きならあの作品も見なよとか、我が家恒例の話題だ。

我が家とはいえ、ほとんど母と姉と私の口が動きまくっているだけだが。その横で父は話に入れないような、でも別に入る気もないようなその間くらいの顔をして座っていた。

男性俳優には会えないままランチが終わると、15の頃からギターをやっている父が原宿のFenderという楽器屋さんに行きたいと言い出した。しかし今は世のルミネが10%OFFキャンペーン中なのである。共通認識過ぎて口に出してはいないものの、私と姉は始めから新宿に乗り込むつもりだった。

◎          ◎ 

それを聞いて、じゃあ付き合おうかなあと父が言い出した。なんだと?!70過ぎのおじさんがルミネにやってくるだと?!ちょっとびっくりしたけど、想像するとなんだかわくわくしてきた。そしてその約10分後にはもう、父はあの新宿ルミネ2の2階。

20,30代女性の人口密度が最も高いといっても過言ではないあの場所に降り立っていた。しかも10%OFFキャンペーン期間中の日曜の午後3時だ。SNIDELやFRAY I.Dこそお店の外にいたものの、少し人口密度が低い店では中にゆっくり入ってきて、近くにあった夏のニットワンピースを見るや、「こんなんいくらするんだ?」と聞いてきた。

「2万くらいじゃない?」と答えると、げっという顔をした。服やバッグなどにお金をかけるという価値観がほとんどない父らしい反応だった。そして、端から見たらこれってパパ活なのでは?と一瞬脳裏をよぎったが、母もその場にいたため、さすがに大丈夫かと思い直すことができた。

お店を見て回る勢いが途絶えない私たちを見て、早々に「ちょっと座って待ってる」と言い出したが、ほんの数軒でも一緒に服を見て、いつも私が外でどんな時間を過ごしているのか、父と共有できたことがなんだか楽しかった。何よりあのエリアに父がいるということがとてもおかしかった。

◎          ◎ 

結局、母も私たちに乗せられて服を1着購入したところで、父と母と分かれることになった。またしばらく、会えない日々を過ごすことになる。一緒に住んでいないってそういうことだ。特別寂しくはないけれど、これまでよりきちんとバイバイしなくちゃという気持ちになる。私たち3人からの退職祝いのプレゼントを大切そうに抱えた父を、きちんと見送った。

家に帰ってきて、なんだか不思議な1日だったなと思った。楽しい1日だった。何があったわけでもないけれど、こんなふうにあったことを細かく記して残しておきたいと思うような日だった。実はランチのお店で、父にお疲れ様のケーキプレートをサプライズで用意した。感激して父は泣いた。最近父が泣くところを以前よりよく見るようになったな。母に対してサプライズなんてしたことも、する必要もないと思っている父だけど、「ほら、されたらうれしいでしょ。たまにはママにもしてあげて」と姉が言った。私と違っていつも素直な姉。いいこと言うな。

52年もの間、私たち家族のために働いてくれた父への盛大なお祝いの日。気持ちはありがとうでいっぱいだけど、4人集まってご飯を食べることはやっぱり私にはまだ日常で、特別じゃないことが心地よかった。中高6年間をともに過ごした小田急線に久しぶりに乗ったこと、友達じゃないからこそズバッと本音で「似合ってない」を言い合える姉と久しぶりに買い物できたこと、そしてそんな時間を父と初めて共有したこと。おもしろかった。

◎          ◎ 

音楽をずっと続けていて、娘たちの買い物に付き合っちゃうような、中身も見た目も若い父だけど、もう74歳なんだよな。普段は年のことなんて忘れているけど、今日は幸せな日だったからこそ、10年後父はまだここにいるのかななんてことを考えてしまった。

でもそのことを悲しいというより、不思議に感じてしまうほど、まだそのことは私にとっては非現実的だ。それでいい。それがいい。

もうすぐ父の日。退職祝いを盛大にやったのだからもう何もしないぞと思っていたが、父の大好きなケンタッキーくらいLINEギフトで送ってあげようかなと思い直した。