わたしは、その人の柔らかさが、どこからやってくるのか不思議だった。
この世に絶えずあり続ける「男性」のなかでも、ひときわ柔和な雰囲気があった。はじめてお会いした、たったこの瞬間から、そこはかとなく惹かれるものがある。
けれど、その好きとも似つかない、いまだ何の括りもない感情を形容はできない。出会って刹那にまさか惚れるとも思わないし、そんなの認めようがなかった。
だから、平穏を装って挨拶した。
「こんにちは」と。
◎ ◎
その人は、にこやかに目を細めた。それから、他愛ないお話を重ねていくうち、趣味の語りへと熱は増していく。その昂りを抱いたまま、来週もお会いすることになった。
「次回は、いつ空いていますか」
「土曜日なら」
「では、そこにしましょう」
こんな具合で、するするとご縁が結ばれていくような感覚に、わたしの胸は躍る。
もしかして、いずれ付き合うことになる? それとも友達止まり?
あらぬ予感を繰り返しては、悶々とした。
けれど、この先の展開を読むにしては、相手について知らないことばかりだ。
だから、次のお出かけでは、わたしから自分という片鱗をみせることにした。
あっという間に訪れた、約束の土曜日。
わたしは自ら、うちに秘められている趣味や価値観といったものを伝える。まるで、大風呂敷を広げるように。
「そういえば、わたしは読書が好きなんですよ」
「そうなんですね、何を読まれますか」
女性作家さんの作品をよく読みます、では近くの本屋に寄ってみませんか、といった調子で会話の糸は丁寧に紡がれていく。そのあと入った書店は、物静かで、より互いの息遣いがわかる。なんだか、ほっと一息つけるような安心感があった。
「でも」
わたしは一つ、きちんと伝えなければならないことがあった。それは、体にある傷あとについて。その不安は、つねにわたしの後を追い、陰を落としていた。どんな返事がくるのかと、身構えて心臓が跳ねた。
◎ ◎
けれど、そんなモヤを一瞬にして払うように、「人それぞれ色々なこと、ありますから。気にしませんよ」と答えをもらう。
その人は、苦楽とも積み重ねた先にある、わたしの笑顔こそ好きだと言った。
「僕はあなたが笑った時の、目尻の下がり方が好きです。すごく綺麗な目をしている」
そうして、わたしの瞳を褒めてくれた。
嬉しかった。
素直に、わたしの中に、この人の姿を留めておきたいと思った。だから、じっと見つめた。彼のすべてを、わたしというレンズ越しに鮮明に写せますように、と。
これまで、どこか他人であったような距離感は縮まり、友人にわたしたちのことを語るとき「彼がね」と言えるようになった。そう、恋人となった。きちんと想いが重なった。
◎ ◎
あれから三ヶ月後。
わたしたちは、特になんの支障もなく、ただ恋人らしく日々を大切にしていた。
おすすめの小説なんかを二人で共有するようにもなった。彼の癖もなんとなく分かっていたように思う。
けれど、なんてことのない、いつもと同じ日に別れは訪れた。
一通のメッセージが届いていて、その内容は「ごめん、やっぱり僕には恋愛は向いていないと思った。まだ未熟だから。だから、別れて新しく良い人をみつけてほしい。本当に申し訳ない」との旨であった。
たった一言で、楽しかった毎日に終止符は打たれ、その儚さはまるで幻想のなかにあるようだった。なんて、危うくて脆いものだろう、恋とはまるで御伽話のように感じた。
やはり他人とは、自己を埋める存在ではないのだと、戒めとなる。
あまりに唐突のことで戸惑ったけれど、きっと彼なりの理由があることは確かだし、もう何も触れずに密かに終わらせた。そんな悲しみのなか、それでも歩むしかないのが時間の残酷さでもあった。
そういう残酷さを拒みたくて、まだ心のどこかに、あの人を住まわせている。
きれいな面影が消えてはくれない。
わたしは、過去との狭間にひとりぼっちだ。
◎ ◎
四月。
そして、陽の温かさに、空気が和らいできたころ。
桜は咲き誇るまで、あと少しだけれど、ピクニック日和の天気が続いた。
いまでも、彼と付き合うことになった日を思い出す。
寝る前の「おやすみ」に、わたしが直してあげた寝癖、プレゼントした栞。
でも、すべては、そっと胸にしまっておいている。
これらはいつか散り、わたしの一頁に色を残すことだろう。
どんな恋人たちの間にも決して永遠というものはないけれど、それでも満たされるものがあると、わたしは信じたい。
そしてようやく愛かもしれない何かに触れる。