過ごしたいようにいるだけなのに、変な人だと思われるのはなぜだろう。

私は集団行動が苦手で、友人やクラスとの関わりは最小限に抑えたい人だ。それが故に、ときにクラスで浮いた存在として見られたことがある。自分たちより変わっている、輪に入らないと思われ、避けたり、好奇の目にさらされたりした。しかし、私は不思議でならない。

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自分が過ごしたいように過ごして何が悪いのだろうか。友達と必ず話さなくても、遊ばなくても気にならなければ死ぬわけでもない。これを変わっていると周りがみなすおかげで、私のようなタイプがどんどん生きづらくなっていくように感じる。

子どもの頃から好きに過ごせる環境があれば、興味や多様性を尊重してくれる場所があったら、今の私はもう少し社交的になっていたかもしれない。

私は友だちと遊ぶよりも、友だちが遊んでいる風景を眺めているほうが好きな人である。幼稚園のときにはすでに、そこに平和で心地よいという感覚を覚えていた人だ。先生からは達観した価値観だと感心されたのを覚えている。小学校に上がってもこの感覚は変わらず、休み時間に外で遊ぶのではなく、教室で小説を読んでいるのが好きな子だった。ドラマの原作本をいかに早く読破するか、という目標を決めて、授業の合間、給食配膳の待ち時間などスキマ時間をすべて読書に当てたくらいだ。

さすがに遊ばない子どもとして心配されたのか、担任から外で遊んでこいと言われることもあった。だからといってすぐに遊びにいくほど素直ではなく、場所を変えて図書室で本を読んで過ごしていた。遊ばなくていいように、委員会の仕事は率先して行い、休み時間に仕事が舞い込んだときには嬉しかった。

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しかし、まだ多様性という言葉がそれほど広がっていない時期。私はその言葉を知らない時期だった。充てられたのは独りよがり、変な人、という言葉。自分が過ごしたいようにいるだけなのに、どうしてマイナスイメージをつけられなければいけなかったのか、納得がいかなかった。

どちらかというと私のほうが、この世界は自分がいたい世界ではないと思うくらいの居心地の悪さ。行きたい世界に行ける勇気と度胸はなかったので、ひたすら我慢するしかなかった。友だちと一緒に遊ぶことが当たり前、仲間にいれてもらい、集団行動をするのが当たり前、女子は成長するにつれて結束が強くなる。そんな生態すらも不思議に思えて、順応できなかった。見かけだけ。いつも一緒にいてくれる友人は私にもいたが、放課後や休日に会って遊ぶほどではない。ランチを一緒に食べてくれるくらいの間柄だった。

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過ごしたいように過ごせる選択肢は、大学に入ったくらいから少しずつ見え始めた。周りに流されずに生きることが大人の一歩だと感じた。学部もサークルも自分の意志や将来があって、自ら選んで入ってきている人が多い。将来に突っ走っている方がよっぽど楽に思えた。

大学生は、私も在学するにあたって目標を決めたこともあり、優先順位がなんとなく決まっていた。友だちと同じ授業だけを取るのではなく、追加で履修項目を増やすこともあった。受けない選択をした授業もある。たまに友だちと離れて1人で時間を過ごすときが、息抜きの時間に思えた。

そして今。思ったよりも1人で過ごす時間が多いけれど、満足している。昔から集団行動が苦手だという本質は変わっておらず、1人でいることに何も言われないこの環境が心地よい。

多くの人は、必ず誰かといることを求めたがる。友だち、恋人、夫婦、家族。安心する感覚は理解できる。しかし、常に一緒にいる必要はない。私にとって、1日の大半は1人で過ごしたいと思う。これが自分勝手だとか、協調性がないとか、変な人と言われるのは不本意だ。

私はこの生活をやめるつもりなどなく、いろいろ言われても知ったこっちゃない。少数かもしれないが、こんな人もいると認識してくれたら嬉しい。それこそ多様性の時代なのではないだろうか。