小学生のころの私はいつも萎縮していた。クラスという狭い空間のなかで「順番にやってみましょう」「この問題に答えて」なんて言われたら、目立ってしまう。
しかも答えられなかったら…黙り込んでしまったら…どんなに注目を集めることだろう。

だけど、学校に通っていれば避けられなかった。少しの𠮟責。アドバイス。気の弱い私は、それだけでひどく落ち込み、いつまでも小さいことを気にしていた。

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そんな嫌なことがあった一日の夜は決まって長かった。眠りに入る前に、悩みや考え事が弾けて頭が回ってしまうのだ。気になる場面がいくつもいくつも再生されて「あの子、もしかしたら笑ってたかも」「周りにできないって思われてるかも」そんなネガティブな気持ちで色付けされる。「次に当てられた時はどうやってごまかそう?」「明日はこんな嫌なことが起こるかもしれない」とたくさん想像力を働かせ、やがて疲れ切ってしまう。

それでも頭の中はくるくる回転。夜がどんどん深くなり、早く寝よう寝ようと焦る気持ちに急かされる。結局、潔く眠りにつくことは許されない。

そんな持て余した時間、私は天井の隅を見つめ続けて時間をつぶしていた。まばたきをせずに一心に見つめ続けていると、視界の周囲がぼやけてきて、天井の角だけがくっきりと浮かび上がる。目には涙が溜まり思わずつぶりたくなるが、それでも我慢し続ける。

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すると、見えていたものとぼやけていた物がくるっと交代する瞬間があった。その移ろいはもっと幼い頃に見た、大きなプラネタリウムを想起させる。説明を聞きながら見た壮大な宇宙の広がりが、暗闇の中の淡い視界と重なり気持ちの波が落ちついていった。

ここまで時間が経つと、ようやく眠りが訪れる。うとうとし始めながら、最後に願う。布団の中に頭まですっぽり潜り込み「どうか、明日無事に過ごせますように」と。なにかに守られているような安心感に包まれ、そのまま私の長い夜は終わる。

願いの効力があったのかは分からないが、前日心配したことは起こらなかったり思ったより辛く感じなかったり、ほとんどが杞憂で終わったものだ。

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今でも、心配性でネガティブな根本的な考え方はあまり変わらない。ただ、あのころと大きく違うのは行動力とコミュニケーション能力だ。様々な挫折を通して自分を深く知る機会があり、考え方のクセを行動に活かせるように変わったと思う。

例えば、起こりうる場面を想定して先に対処を施す。たったこれだけのことでも、「ありがとう」「気が利くね」と感謝してくれる人がいるのだ。自分の性質を活かせたことを実感する時、持てる想像力で小学生の頃の自分と繋がっているのを感じる。

そして、悩んですぐには寝れなかった夜を思い出す。今思えば、あのころの自分は持っている性質以外まっさらだった。未熟だったと思う。

だから、「そこが人生のスタート地点、見方を変えれば景色も変わるよ」と伝えてあげたい。