あの街に行くことが決まった瞬間、あれがわたしの人生のターニングポイントだったと思う。
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散々だった地元での生活。いつまで経っても馴染めなかった学校。地獄と化した家庭。
全部中途半端になって失敗した大学受験。時間割をこなしていただけの塾。それ以外はネットに時間を費やした浪人生活。
そして、2度目のセンター試験(わたしが受験したのはまだセンター試験と呼ばれていた頃のことだ)を終えた1月中旬。担任と成績とにらめっこで前期志望校と後期志望校を決めた。
大金をはたいて入塾させてもらっておいて全く真面目に勉強しなかったくせに、いっちょ前に”やりたいこと”だけは明確だった。
前期志望校の受験を控え、担任は言った。「この成績なら問題なく受かる」それは担任だけでなく、誰もがそう思っていた。
合格発表のホームページに、わたしの受験番号はなかった。
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でも、なんとなく驚かなかった。受験当日、絶対に落ちれない切迫感とか、ほとんどが1つ下の現役高校生には負けられない圧力とか、押しつぶされそうなプレッシャーを感じていてもおかしくなかった。否、感じるべきであった。今でも覚えている。あの時、自分が頭1つ分浮いている感覚があった。そして、他の受験生たちがどうしようもなく”馬鹿”に見えたのだった。
なぜそう思ったのかはわからない。だが、自分1人だけが異空間にいるような感覚がずっとあったのだ。
もっと言えばこの時から、後期志望校に入学することは決まっていたのかもしれない。
後期受験の時には「受かったな」という感覚があった。だが、そこはわたしが最もやりたいことを主として勉強できる場所ではなかった。恩師の、「そこでもセナのやりたいことは勉強できるよ」という助言から、受験を決めたに過ぎなかった。
合格発表でも「受かって”しまった”」という感覚の方が強かった。地元より田舎だし、下宿もどうやら大学からは徒歩30分もかかるらしい。こんなところに行くのか...、どうせなら関東に行きたかった...全然楽しみじゃなかった。
いっそ学歴さえ手に入ればいい、友達も思い出もいらない。と思うほどにひねくれてしまっていた。
でも、わたしの人生のターニングポイントはここだった。今ならそう断言できる。
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そうして始まった一人暮らし。自立した生活。一応、”やりたいこと”を勉強することもできる環境。地元を離れたことで距離を置くことができた家庭。落ち着いて見つめ合えた自分自身。
当時心酔していた人と決別できたのもこの街だ。
出会えて良かったと思える友達。紆余曲折したけど今でも一緒にいて支え合える恋人。”やりたいこと”を職にする決断と努力。
全部、あの街で得たものだった。大学生活、たった4年間である。
外国語だと揶揄われる方言も、さすがに4年間では話せるようにはならなかったけれど、聞き取って会話の流れをぶった切らないくらいにはやりとりできるようになったものだった。
高いビルがない、のどかな街並みだってその穏やかさが良さであると今なら分かる。
書き記したい思い出がありすぎて、選べない。全部が大切で、尊くて、愛おしい。
だが、今あの街に行ったとて、大学を訪れたとて、何もない。大好きな先輩も、可愛い後輩も、もう誰もいない。友達だって卒業したら皆散り散りになった。この人の下で学びたいと思って入ゼミした教授も転勤してしまった。昨今の不況によりあの頃通った店もどんどん閉まっているようだ。反対に、あの頃はなかった店がいくつもできた。もう、あの頃のあの街はない。
でもあの街で心から生きた時間があったから、今もやりたいことを続けられていて、ゆっくりだけど自分とも向き合い続けることができている。大学で出会った友達は、今でも定期的に会ってお酒を飲んで、あの頃のことを、あの街を、思い出す。あの方言が聞こえてくると懐かしい。
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期待外れだったあの大学に、あのタイミングで入学できて良かった。あの街で暮らして本当に良かった。お世辞にもまた住みたいとは思えないのだけれど。わたしはあの街が好きだ。
わたしがあの番組に出るなら、この街を選ぶだろう。そして迷わず言うだろう。
『ここがわたしのアナザースカイ』