今まで辿ってきた人生で、どれだけ「今」を楽しめていたのだろうか。私は気づけば最近、そんなことを考えるようになった。

いろいろあって破り捨てた高校の卒業記念集。当時のクラスメイトが書き集めた将来の夢と、高校生活の振り返りを文章で書いたものだったけれど、今思うと「たられば」を私は綴っていたのだ。「たられば」が悪いわけではないのだが、後悔とか未練がましい、というのは今後の人生に良い影響を与えそうにない。

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あのときまだ18歳だった私には未来がすごく輝かしく見えていた。でも今は、輝かしい未来を見たいのなら自分で努力しなきゃいけないんだ、と思い知らされることばかりである。しかし、人生の一コマがすべて綺麗なもので溢れているのだとしたら、それはそれで幸せを感じられなくなるのでは?とも思ったりする。

中学校でも高校でも卒業式の日を迎えると、目に涙を浮かべる子がいた。「あのとき、辛かったけど、頑張ってよかった」とか「辞めたいと思うくらいしんどかったけど、卒業できてよかった」そう話しながら、楽しいことよりも辛く苦しいことのほうが多い「現実」を乗り越えた先にある「幸せ」を、ひとりひとりが噛みしめていた。

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辛いことを乗り越えてこその人生という信念深いものを、やはり私たち人間は感じ得ているのかもしれない。辛いことを乗り越えてこその幸せ。それは本当に立派で素敵なことだと思う。でも、そればかりが誇張されている世の中では、「とことん楽しく生きて成功を手に入れた人」に対してあまり感情移入できないのではないか、と私は疑問を抱くようになった。もちろん、こうして持論を展開する私だって、楽しいことよりも溺れそうなくらい辛いことに取りつかれている時間のほうが多かった。

「今」こうして書いている時間にたどり着くまでも、いろんなことを繋いできた。だからその想いを言葉にして書くことができる。やはり「苦労しなければ成功はつかめない」という概念は、少しだけ共感できたりもする。

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それでも、なるべく長いようで短い人生を楽しいものにしたいし、なるべく辛い思いに遭遇したくはない。どれだけ「楽しい」で人生を埋め尽くすのか、というのも才能だったりもする。だから私は、辛いことを乗り越えよう、なんて無理に思わなくなったし、もっと本能的になって歩を進めようと考えていた。

いつまでにこれをやって、課題のために文章を書かなきゃ、これこそが純愛だって思ってもらえるようなシーンを生み出さなきゃ、先生から教わったことをちゃんと吸収できているかな。これ以外にも常に私の頭の中は、目の前のことでいっぱいいっぱいで、いつパンクしてもおかしくないくらいだった。だから、エネルギー不足で、言葉と文章のこと、締め切り、単位、とか全部忘れたくて放置した日だって、数えきれないほどあるはずだ。無事に、卒研以外の単位を満たした今だからこそ言えることだけれど。

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こんな自分だから、何かを選ぶとき何かを手放すんだ、という考えが何となく理解できる。だって人間は二刀流なんてできないと思うから。文武両道を掲げて、得意なことは伸ばして、不得意なことは克服しよう。それで部活もやって勉強もやって、毎日ハードな学校生活。そういう中高時代と、私は縁がなかったわけではないが、10代のときにしかできないことだったとしみじみ思う。

大人になった今は、苦手なことよりも今まで頑張ってきたことに目を向けたいと考えている。無理やり自分を切羽詰まった状況に追い込まなくても良い。今やりたいこと、頑張りたいことをひとつずつ見つけて、ひとつずつやり遂げていく。
コツコツと歩を進めた先には、きっと眩しい光が射しこんでいるから。