スマートフォンの非表示フォルダに今も息づくあの秋の、澄んだ空気をふと思い出す。
そんな夜だ。
◎ ◎
窓の外には匂い立つような美しさが広がり、紅い山々はロマンスカーに乗った私と彼女を快く受け入れてくれた。
そこら中に秋の気配が漂う、ベストシーズンの観光地には紅葉に負けじと色めく人々で溢れており、女同士のカップルである我々が歩いていても誰も見向きはしなかった。
秋の箱根の寛容な空気を深く吸い込む。
その時の私の隣にいたのは、レズビアンとして生きることを決意した私に初めてできた彼女であった。
「奥ゆかしい」という単語を人の形にしたような女性で、ミステリアスな様に私は惚れきっていたのだ。
まだ付き合って間もなく、また、彼女にとっても私が初めての彼女であったが、私は彼女とこの先ずっと一緒にいたいと思っていた。
私たちは互いに気遣い、思い合い、彼女の手を取り、秋の箱根の道を散策した。
崩れやすい山の天候の下で予想外の事が起こっても、何とでもなった。
彼女がいてくれたから。
◎ ◎
夕暮れのガラスの森美術館に1歩踏み入れて思わずため息が出た。
彼女越しのその世界は信じられないほど美しかった。
昔から私にとってこの社会、世界は息苦しいものだったが、その時初めてこの世界の空気ごと、全てを好きになれるような気がした。
私の非表示フォルダにはその時の世界が収められている。
今でもこの1枚だけは消すことが出来ない、あの人との記憶の最高の1枚、そして、最後の1枚。
◎ ◎
ホテルの部屋は彼女が選んでくれた、私の予想の倍以上広いツインルーム。
2つのベッドの距離はそれなりだった、無難で適切な距離。
その距離は私が恋人に望む距離としてはあまりにも遠すぎるものだった。
「ごめんなさい」
声が、体が、震えていた。
あの時は彼女の方が震えていると思ったが、今思えば私も悲しみに震えていたのかもしれない。
その震えは温めようとしてもおさまらず、むしろ接触によって引き起こされたものであった。
ベッドランプが照らし出したのは、私たちの姿形とセクシュアリティだった。
◎ ◎
その旅の帰路は昨日と打って変わって色が無く、1日で世界はこんなに変わってしまうのだと私は呆然としながら、俯く彼女の頭を形ばかり眺めていた。
「またね」
私はもう1度会いたかった、1度じゃなくこの先もずっと会いたかった。
だからそう言って別れたが、向こうからの返事は返ってこなかった。
彼女と別れた電車の中で私はセクシャルマイノリティについて新たに知ることになった。
「無性愛」
セクシュアリティの多様性に救われた私がセクシュアリティの多様性に絶望する日が来るとは思っていなかった。
私たちは多様だ。
人間、それぞれ1人でも幸せに生きられる道がある。
でも2人で居たらもっと幸せ、それって素敵な事だよね。
美味しいものを一緒に食べて綺麗なものを一緒に見て、感情を共有して、その相手があなただったら幸せです。
そんな話をしたっけな。
毎年秋風が吹くと、あの箱根の鮮やかさが目の奥に蘇る。
あの澄んだ気配が鼻腔を蕩かす、あの人の震えた声と体が私の心臓を未だに震わす。
◎ ◎
今、私の隣にいるのはまた女性だ。
素直で率直で、真っ直ぐでオープンに私の心と体の傍に居てくれる。
女同士はシングルベットでもそんなに狭くはないと教えてくれた人だ。
女同士の良いところは、同じお風呂に入れるところとベッドが狭くならないところ、それくらいだと私は思う。
セクシュアリティなんてただの属性だ、大したことでは無いのだ。
だからどんなセクシュアリティだって謝らなくていい、例え誰かと合わなくても絶望しなくていい。
ありのままの自分を大切にして、その時、傍に居てくれる人を同じように大切にしたらいいだけだ。
あの時の秋は今も私の中に息づいている。
だからこそ、大事にしよう。
私の心と体も、このセクシュアリティも、今の私と一緒に居てくれる人も。
かつて私のそばに居てくれた人と、その記憶も。
秋の夜に吹く風のように穏やかに緩やかに、停滞して腐敗することなく前へと流れて進んでいけますように。