「思い出」はかけがえのないもの。その人にしか感じられないもの。そういう風に思っている。楽しかったこと、嬉しかったこと、悔しかったこと、悲しかったことなど……感じ取った一つ一つがやがて思い出となる。もちろん、良い思い出が多いに越したことはない。悪い思い出は消し去りたい気持ちもあるが、それが良い思い出へと変化した時、私は成長したと感じる。

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子供の頃は、思い出を形として残すことに必死だった。幼い頃は感情をコントロールするのがまだまだ未熟であるという面もあるかもしれないが、例えば、家族でどこかへ出かけた時、その出かけた証拠として何かお土産を買うことに必死だった。何も買わず、手ぶらで帰るのがどこか寂しくて。お土産売り場でひたすら買うものを探す。そう都合良く、出かける度に欲しいものがある訳ではなかったと思うが、買う行為に自分の感情を寄せていたように思う。

なぜ、おでかけ先で何かを買って帰ることにこだわっていたのだろう。おそらく、子供ながらに、この思い出をいつまでも形として残しておきたいという気持ちがあったのだと思う。その日に目で見て、耳で聴いて、手で触れて……肌で感じたこと全てが私の血となり、肉となり、思い出となるのだけれど、子供の頃はそれを理解することができなくて、楽しい瞬間が終わってしまうことに怯えていたのだと思う。今回のおでかけは終わっても、また次楽しいこともあるし、そこで新しい思い出ができることも知らずに。

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「感じる」ことの醍醐味を味わえるようになったのはいつからだろう。はっきりとした記憶はないが、おそらく、「鑑賞」に興味を持ち始めた頃からだと思う。自然でいえば、春のお花見、秋の紅葉狩り。子供の頃は花を見ても風情を感じられなかった。そして、私の現在の趣味である文化鑑賞。美術館で絵を観たり、ミュージカルやお笑いを観たり。鑑賞というのは、その瞬間、感じることを楽しむものであって、往々にして後々形として残るものではない。もちろん、それに関連するグッズを買うとなると話は別だけれど。

形となる思い出として考えさせられるのが「写真」だ。写真はその瞬間を形として残すことができる優れものだ。今やスマートフォンひとつで簡単に写真を撮ることができる一方で、考えさせられる場面がある。とある展示会に参加した時。一部を除き、写真撮影がOKだった。私を含め、皆、気に入った場面をバシャバシャと写真に収める。それは決して悪いことではないのだけれど、写真を撮っている間はどうしても写真を撮ることに集中してしまい、その展示物とリアルに向き合えていない。私は、しっかりと展示を観つつも写真も撮り、両立するように楽しんだ。

写真を撮るメリットとして、後で見返すことができる。あの場面良かったな、もう一度見ようということができる。展示会の場合、会場では人が多い等の理由で、あまりゆっくり見られなかったとしても、自宅でゆっくりと写真を見返すことができる。その写真を見ている間、会場にいた時と同じような気持ちに浸れるのだ。

一方、デメリット。それはメリットの裏返しと言えるかもしれないが、写真を撮ると後で見返すことができるというどこかしらの甘えができてしまう。もし、写真撮影不可なら、何とかしてこの瞬間を目に焼き付けようと必死になると思うが、写真を撮ると、その必死さが少し軽減すると思う。つまり、感じるという行為がおろそかになってしまう……そんな気がするのだ。

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思い出というのは必ずしも形のあるものだけではない。もちろん、今でもおでかけ先でグッズを買うこともあるけれど、たとえ、何も買わなくても、目に見える形として残らなくても、自分の心で感じたあらゆる記憶、それが立派な思い出だ。名の付くような出来事ばかりが思い出じゃなくて、人生そのものが思い出。その思い出を胸に、また新たな思い出を探しに行こう。