自分が好きではない私は感情を書き出すことで自分と対話する

あなたは自分のことが好きですか?正直に言います、私は好きではありません。

勿論自分を好きなことはいいことですし、好きになろうと努力することもいいことだと思います。しかし、無理して好きになろうとする必要もないのではないか、と私は思うようになりました。そんな私の自己肯定感について話していきたいと思います。

小さい頃から私は外見のコンプレックスが酷く、嫌で仕方ありませんでした。しかもそんなコンプレックスを私に植え付けたのは父親と祖母でした。顔が丸い、お尻が出ている…など。姉と比べられ、私は姉の二流品で、引き立て役なのだと思っていました。

思春期を迎え、外見のコンプレックスに加え、自分の話し方から考え方から何まで嫌で嫌でたまりませんでした。些細なことで苛立ち、傷つき、その度に自分を嫌いになっていく。

そんな怒り、憎しみ、絶望の丈を私はひたすらノートに書き殴った。最初は感情を持て余し書いていただけでしたが、感情のままノートに書き殴ることでいつしか私は怒りを抑えられるようになった。それどころか、自分自身とノートを介して対話をするかのように、自分自身を客観視できるようになっていきました。

人に言えない話も自分になら受け止められる。嫌いな私との付き合い方

私は些細な悩みを人に言うことができませんでした。恥だと思っていました。悲観しているのは私だけで、誰も聞いてくれないと思い知るのも怖いと感じていました。でも自分になら話すことが出来ます。

私が私を救うことが出来るし、私が私を憎むことも出来からです。

小学校高学年から、中学時代は自意識過剰で、悲観的で、狭い世界に拘泥していました。しかし、高校生になり、次第に私との付き合い方に慣れ、遠くから私を見つめ、手を差し伸べられるようになりました。

「今は落ち着こう。何が嫌だった?ノートに書いて」

私は私との向き合い方を覚え、世界との向き合い方も次第に分かっていきました。私はいつしか、“私を好きになること”ではなく、“嫌いな私”に慣れ“私を嫌いな私”を認められるようになったのです。

「また嫌なことがあったの、相変わらず私は憎たらしいやつだね、でも許そうよ」と。

好きになれなくても嫌いな私を受け入れる、私なりの私との付き合い方

しかし、“嫌いな私”を好きになることだけはどうしても出来ませんでした。でもそれでいいのかもしれないと思い始めました。
自分を好きになることだけが自己肯定感ではないのかもしれない、ある意味私は私を肯定している「嫌いな私」を。そういうネガティブなポジティブがあっても良いのではないでしょうか。

自分を好きになろうとすることは悪いことではない、むしろいいことだと思います。でも、好きになろうとして自分を追い詰め、苦しめる必要もありません。

私は胸を張って言います。

「私は私が嫌いだ。でも嫌いな私もたった一人の私で、私を嫌っていいのは私だけ」

自分自身を嫌うことは確かに良いこととはあまり言えませんが、それが私なりの私との付き合い方であり、私の自己肯定感なのです。