亡くなった父のつけていた香水の香り。
そもそもその記憶が本物なのか、父がつけていたのは香水なのか。それすらわからないその「香り」がずっと忘れられない。

記憶にある父の香りとたくましい腕の感覚。覚えているのはそれだけで

父は、私が幼い頃に母と離婚した。記憶の中の私の「おとうさん」との最後の思い出は、離婚後、私に会いに来た父と一緒に行った動物園だ。
ソフトクリームを食べて、父に手を引かれて歩く私。しかしごきげんだったはずの私が、どうしてか急に泣き出して帰りたがった。泣き出した理由も、そのときの父の顔もおぼろげなのに、おろおろしながら私を抱き上げ、慌てて車へと向かう父のその「香り」とたくましい腕の感覚だけはとてもくっきりしている。

父のつけていた香水が確かにその香りなのか、なぜ私がそれだけははっきりと覚えているのか。
全く分からないけれど、街でその香りをまとう誰かとすれ違うたびに思う。おとうさんの匂いだ、と。そしてその動物園での父との記憶がふわりと蘇る。

私の記憶にある父は本当にそれだけだ。
父の話は母にはタブーだったから、私が知っているのは、祖母から聞いた父のエピソードが形作った、私の頭の中の「おとうさん」の姿だけ。
綺麗な二重とすらりとした背格好、優しい笑顔。女の人によくもてたとか、母との出会いはバーだったとか。

私のことをとても大事にしていて、母と別れることになった日、保育園へと私を送り届ける途中に祖母の家に寄った父は泣きながら私を抱っこして頭を下げたとか。
お母さんにも色々あったんでしょうけど、と祖母は毎回口にする。いい人だったのにねえ、と。

抱いてしまう淡い期待。あの香りがいつか見つからないだろうか…

そんな父は私が中学に上がった頃に、肺がんで亡くなったそうだ。父にはどうやら次の家族もできていたらしい。葬儀にも通夜にも、私は行かなかった。
筆ペンで、震えた文字で私の名前が書かれた封筒だけが、後に私に渡された。中は未だに見ることができていない。

そっと匂いを嗅いでみたけれど、父のものだと記憶しているその「香り」はしなかった。

私も大学生になり、自分の好きな香りを集めることが楽しいと気づいて、香水を手に入れるためにお店によく足を運ぶようになった。そしてどこかで、淡い期待を抱いている。あの「香り」が見つからないだろうかと。
お店に行くとメンズの香水をしきりに試す私に、友達はいつも不思議そうな顔をする。父の香りを探している、とは何となく恥ずかしくて言えない。

甘さがあって、でもくすんでいるような。
タバコにも少し似た、それでいて爽やかな香り。

もう叶わないけど、もし父に会うことができたら、私が聞きたいこと

父について覚えていることは多くはないから、好きとか嫌いとか、そうした感情もはっきりとは分からない。ただ、あの「香り」を探す私は決して父のことが嫌いではないのだと思う。

本当に父がその「香り」をまとっていたのか、自分の記憶が本当に正しいのかそれすら曖昧なのに、私にとっての「忘れられない香り」は確かに父のものだ。
もう叶わないけれど、父に会うことができたとしたら、私はきっと聞くと思う。

「ねえおとうさん、何の香水使ってたの?」