小学生の頃、私は自分の名字が嫌だった。理由は、長いから。長いといっても、5文字、漢字で記すと2文字である。今思えば、どうってことなかったのだが、小学生の頃の私は本当に恥ずかしいと思っていた。特にそう感じていたのは、朝出欠を取るとき。あべ、いまい、うめだ……などと続く中、自分の番が来るのが嫌でむずむずしながら友だちの返事を聞いていた。自分の番が来ると、「名前長いと思われていないだろうか…」と気にしながら返事をしていたのを覚えている。今私がタイムスリップできるなら、「そんなん思う人おらんわ!」と一蹴してやりたい。そして、「先祖に失礼やぞ!」とも。でも、私は自分の名字を恥ずかしいと感じていることを周りに伝えたことは一切なかった。子どもながらに、それは言ってはいけないことだろうと無意識に感じていたのかもしれない。だから、ご先祖様、こんな風に思っていた私をどうかお許しください!
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小学校6年のときにも名字に関する記憶がある。令和の時代だとありえないと思うが、担任の先生に名字をいじられていた。私の名字は「○林」で、「○ばー」と呼び始めたのである。「ばー=婆」というイメージがあり、不快だった。しかし、先生は「俺センスあるやん」というような得意顔で毎回呼んでくる。そして、呼び名は大変不快であったが、先生のことは好きだったので、好きな男の子に嫌がらせをされているような気持ちで毎回受け流していた。小学校6年の女子、先生より精神年齢は高かったかもしれない。ちなみに、「○ばー」と喜んで呼んでいたのは先生だけで、クラスメイトにいじられることはなかったことも幸いだった。
時は過ぎ、高校1年の頃。
部活に入部した際に、3年の先輩にあだ名をつけられるという謎の儀式があった。中高生時代の2個上の先輩といえば、絶対的な神的存在である。「ばやしにしよー!」。金髪でいかつい先輩がそう言った。その日から私は「ばやし」になった。「ばやし」は大変私にフィットし、それと共に名字との距離も近づいたような気がする。
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大学に入ってからも、自己紹介は「ばやしって呼んでください!」が定番だった。「なんでばやしなの?」「いかついな!笑」など、みんな反応してくれ、会話が広がった。そんな空気が心地良く、「ばやし」は私自身になった。
数年前結婚をしたので、今現在は「○林」を卒業している。しかし、私は「○林」でもなく、現在の名字でもなく、「ばやし」が一番身の丈に合っていると感じている。なので、名字が変わった今でも、呼び名を聞かれることがあれば「ばやしって呼んで!」と言っている。
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そういえば何年か前、友だちと飲んでいたら、名付け親の金髪の先輩と電話をさせていただく機会があった。少々緊張しながらも、「名付けていただきありがとうございます!」と伝えると、本人は全く記憶がなかったそうだ。何気ないひと言が誰かの人生に大きく影響することもある。そして、誰かにとっては大きなことでも、隣にいる人にとってはそうとは限らない。そんなことを感じた「ばやし」の名付け親との10年ぶりの通話だった。
このことから考えると、「○林」の長さを気にするクラスメイトはほとんどいなかったであろうと思う。小学生の私、あなたの名字は素敵だよ。共に人生を歩んでいく名字、どうせなら愛してあげてほしいな、と思う。