甘くて秋になるとむんと香ってくる独特の匂い。
私は金木犀の匂いを知らなかった。それは単なる無関心ではなく、19年間住んでいた地元には咲いていなかったからだった。
20歳になった私は今、その香りが大好きで、そして大嫌いだ。
私が金木犀の匂いを認識したのは、地元を離れて初めての秋のことで、その日のことは鮮明に覚えている。

マスク越しに香る甘くて優しい匂い。思い出すのは17歳の春の日

2020年。からっと晴れた10月のその日、まだ暑さは残っていたけれど、秋の気配が漂いはじめていた。いつも通り換気のために窓を開けると、ふと哀愁にも似た切なさが襲ってきた気がした。気のせいだと思った。
前期は感染症の影響で登校できなかった。ずっと実家にいたから、この街にはまだ馴染んでいない。ホームシックかしら。

急いで身支度を整えて外に出て、買ったばかりでピカピカのママチャリに乗り、まだ慣れない道を急いだ。そのとき今度は確かに、マスク越しに甘くて優しい匂いがした。何の匂いだろう。なぜか再び泣きたいような懐かしいような感覚に襲われて、17歳の春の日のことを思い出していた。

まだ少し寒さの残る5月。畑と川と森しかない田舎には、デートスポットなんて存在しない。だから当時付き合っていた私たちはいつも決まって、ふたりの家の中間地点の、自然が多く残された公園で会っていた。
リスやキツツキがいて、春にはオタマジャクシ、秋にはトンボが現れるそこは、私のお気に入りの場所だった。

修学旅行で買った練り香水。彼は「いい匂い」と私の頭を撫でた

5月、柔らかな日差し差しが差し込む遊歩道を、私は恋人と歩いていた。まだ染めていない黒髪がそよ風に吹かれて、心地の良い日だった。恋人は同じ高校の同い年だった。
まだお化粧もしたことがなかった私だけど、その日は少し背伸びをして、京都への修学旅行で買った、まるっこいうさぎの容器に入った練り香水を身にまとっていた。その独特な甘い香りが私はとても好きだった。

いつも通りベンチに座って他愛ない話をする。彼が言う。
「ん、甘い匂いがする。なんか付けてるべ?」
「えっとね、修学旅行で買ったのさ。いいしょ?」
「不思議な匂いだね、いい匂い」
そういって彼は優しく笑った後、私の頭を撫でた。幸せだな、と思った。
それから私は彼と会うとき、決まってその練り香水を付けるようになった。

ふわりと漂ってきた甘い匂いは、まさにその匂いだった。もうその香水を付けることはないのに。私はなんだか切なくて、大声で泣きたいような気がした。

あの独特の匂いの正体は「金木犀」あの春の日と結びつく匂い

大学構内で待ち合わせをしていた友達に言う。
「今日、なんか甘い匂いしない?気のせいかな」
「あー、これ、金木犀の匂いだよ、いい匂いね」
「キンモクセイ?」
「そう、金木犀。見たことない?さっき咲いていたから、あとで見に行こっか」
友達は大学の近くに咲いていた、オレンジがかった小さな花が咲く木のところへ連れて行ってくれた。甘い香りを強く感じる。それは、確かにあの黄色いうさぎの練り香水の匂いだった。

あの独特の匂いは、金木犀だったんだ。
人生で初めて、金木犀を知った。でもその香りは確かに、あの春の日と、どうしようもなく結びついていた。練り香水も思い出も、何もかも地元に仕舞ってきたはずなのに。

ねえ、あの不思議ないい匂い、覚えてる?あれは金木犀っていうんだって。
秋になると、ほんの短い間、暴力的なくらい街の至る所で香ってくるんだって。

きっと私は、毎年秋になると、この匂いで春の日のことを思いだす

きっと彼は今でも金木犀の匂いを知らない。けれど、もう教えることも出来ない。二度と会うこともない。初めて緊急事態宣言が出たあの季節に、2人で別離を決めたのだから。
どうしようもなくわかり合えなかった私たち。

未練ではないと思う。誰のせいでもない。どうしようもない。言いたくないことも聞きたくないことも伝え合ってしまった。いつもの春なら言わなくてよかったことまで。
もう戻れないことも、やり直せないこともわかっている。
けれど毎年秋の日にこの匂いに包まれて、私はきっとまた春の日のことを思い出してしまうのでしょう。

新しいこの街にまで、思い出を連れてきてしまうなんて。
金木犀の匂いは、大好きだけど、大っ嫌いだ。