結婚して名字が変わった時、私は「万歳!」と思った。愛する人と同じ姓になれるのがうれしかったというのもある。ただ、それ以上に、旧姓と決別して、新しい自分にリセットされるようでせいせいしたのだ。
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私は子どもの頃、いじめられっ子だった。体が大きいわりに鈍くさかったこと、勉強ばかりしていて芋くさいことなどが理由だったと思われるが、小中学校時代は、思い出したくない暗黒時代である。
高校・大学は、地元から離れたところへ進み、私をいじめていた子たちとはおさらばした。私のことを誰も知らないまっさらな環境で、おしゃれの仕方や社交術を身に着けて、いじめられていた過去の自分は封印したつもりだった。小中学校の子たちが集まる同窓会や成人式には、行けなかった。
しかし、地元に帰ると、かつての私がひょっこり顔をのぞかせることがある。例えば病院の待合。「廣瀬さ~ん」と名前を呼ばれる。狭い町だから、必ずそこに知り合いがいて、「あ~、あの廣瀬さんだよね?」と声をかけてくる。
あるいは飲食店や美容院の予約を入れるとき、「廣瀬です」と言って店へ行くと、かつて私をいじめていた同級生がそこで働いていたりする。そこでよく言われるのが、「名前を聞かなかったら、あなただとは分からなかった」というものだ。自分で言うのもナンだが、私は美容やファッションに気を遣い、随分垢抜けた。かつてのいじめられっ子の片鱗は残っていないはずだった。
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ただ、名前があるばかりに、「いじめられっ子の廣瀬さん」として、皆の記憶の中に定着してしまっている。私は、その消えない刺青のように自分に刻まれた印を、振り払いたかった。
新しい名字になったとき、新しい自分に生まれ変わった気がした。事実、新しい名字で地元の店を予約して行っても、まったく気づかれない。窮屈な田舎の町で、匿名性を得たような気楽さがあった。
それにしても、名字って不思議だ。生まれながらにして決まっていて、しかも自分では選べない。もちろんファーストネームだって自分では決められないのだが、そこには親の愛情や願いやセンスが詰まっている。けれど、名字は、その親も、そのまた親も、自分では決められなかった。何といおうか、もう運命的に割り振られたもの、と受け容れるしかない部分がある。だからこそ、私は名字は単なる記号だと割り切っている。周りを見渡しても、名字と人物の感じがいたく一致している人が、そんなにいるだろうか?
名字が当人の雰囲気にいかにも馴染んでいる場合も、逆に、びっくりするほど似合っていない場合も、あまりないような気がする。結婚して新しい姓になって、最初は違和感があっても、そのうち自分も周りも慣れてゆく。
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私は一人っ子で、父にも兄弟がいないから、私が名字を継がなかったら、名字は絶えてしまうことになっていた。どうしても継がねばならない旧家でもないのに、夫はそのことを心配し、夫には男兄弟がいて既に姓を継いでいるから、私の姓になってもよいと言ってくれた。結婚するくらい好きなら、名字が変わることくらいはたいした問題ではない、と言ってくれた。
ただ、女性の中には、旧姓に愛着があり、夫の名字になることに抵抗のある人もいる。仕事関係で旧姓での名前が通っており、変えたくないという人もいる。そういう理由で結婚に踏み切れない人にとって、選択的夫婦別姓制度は福音だろう。
しかし、私は、現在の非婚化の原因が、夫婦別姓を認めないことにあるとは思わない。夫婦別姓が認められたからといって婚姻数が飛躍的に増加するだろうか? 非婚化の原因は、非正規雇用などの社会構造や価値観の多様化など、もっと別のところに理由があると思う。