好きなことを仕事にする。そう決めて上京した。
だけど、自分がそれに向いていないことを、日々の仕事を通した手応えから、否応なしに自覚し始めていた。地元では観測されない猛暑日が毎日のように続く土地での、4度目の夏だった。

◎          ◎

毎日、また今日も徒労に終わるとわかりながら、流されるように仕事をする日々。
初めは大好きで頑張りたいと思ったそれが、いつの間にか日常になり、綺麗なところばかりではないことを、あまりにも短期間で知り過ぎてしまっていた。
それでも、どこかにやりがいを見出したくて、呼吸をするのも忘れるほどに没頭した。
いや、きっと没入することで正気を保とうとしていたというほうが正しい。今になって振り返れば、そうすることでなんとか気力を持ち堪えさせようとしていたのだと思う。

きっかけはたった1日、朝起きられなかっただけだった。
昨日、遅くまで残業していたから疲れているのかもしれない、今日はゆっくり休んでまた明日から頑張ろう。そのときは何の疑いもなくそう思っていた。

◎          ◎

次の日、いつも通り起きて、仕事に行くために玄関で靴を履いた。途端、どこからともなく自分の心臓が脈打つ音が鼓膜を支配して、大きく鳴った。
どくん、どくん。
身体の内側から、誰かに太鼓の撥を振るわれているような感覚。
その場にうずくまった。どんどんその感覚は激しくなり、目を開いていられなくなった。

混乱しながら部屋に戻ってリビングの真ん中でへたり込む。
自分の意思を介さず、涙が溢れていた。
私はこれまで、悲しいとも、苦しいとも思っていなかったのに。とめどなく両目から溢れるそれが、これまでに蓄積したやるせなさを表しているようだった。

◎          ◎

世界の歪みを認めたくなかった。
私が「そのこと」に気づいたら、この両足は前に進めなくなる。それを知りながら、騙し騙し、やり過ごしていたことを急に自覚した。
自分の身体からの精いっぱいのSOSが、一気に濁流のように押し寄せてきたこのときに、私は初めて限界だったことに気づいた。

そうして休職に至った。当初は、まるで自分がコツコツと高く積んだ積み木を、何者かの手によって一気に崩されたような喪失感があった。着実に積み上げてきたと思っていた、成果や人望が指の間からこぼれ落ちることの恐怖は、筆舌に尽くしがたいものがあった。精神の均衡もアンバランスになって、それまでの習慣、日常を手放さざるを得なかった。

◎          ◎

だけど私は、すべてを失ったわけではなかった。
気が遠くなるほどの時間、泥のように眠り、薬に頼りながら、一つひとつ、ばらばらになった衣食住を拾い集めていった。
悩んだ末、好きだった仕事を離れ、今は環境を変えて、なんとか人並みに働き、日々を送ることができている。
元いた土地を離れるときは後ろ髪を引かれたけど、私がこれからも生きていくためには、どうしても必要な選択だった。

今、繰り返す毎日は、ドラマで観るような鮮やかな色彩ではない。
けれど、家路に着くときに見た夕焼けが綺麗だったとか、朝に飲むコーヒーがおいしいとか、誰かとくだらない体験を分け合えたとか、そんな些細な喜びが散りばめられている。私の心にも、まだそういう小さな幸せを感じる柔らかさが残っていることがただ嬉しい。

◎          ◎

過去の私に、そしてこれを読んでいるあなたに伝えたい。
どうか、あなたの身体の訴えに素直になってほしい。
残酷だけど、仕事の世界は替えが効く。というかそうでなければならない。だけどあなたという存在は、唯一無二なのだから。
今を手放して逃げることは勇気の必要なことだ。でもあなた自身が壊れることに比べたら、これまで積み上げてきた積み木をひとつずつ降ろすことは、ほんの小さなことだから。

どうかこれが、限界を感じていながら、またはその自覚すらないまま、頑張り続ける誰かの気づきのきっかけになることを願って。
あなたの人生は、他の誰のためにあるわけじゃない。たったひとり、あなただけのものだよ。