東京浅草、神谷バーの一階。
酔っ払いがひしめき合う大衆的な酒場の中で私は彼に言った。

「名字を変えないための手札はほとんど私が持っているのに、あなたが苗字を変えずに済むのは『男』というカードを持っているというだけのこと。男というだけで私の人生の『これまで』を捩じ伏せたということを忘れないでね」

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私は一人っ子だ。名だたる武将たちには及ばないが、先祖はかつて文字通り一国一城の主だったらしい。「世が世ならお姫様だね」と言う母に「お姫様より武将がいい!」と答えたことを思い出す。また私にとって名字とは家族のアイデンティティを示すだけでない。芸名ではなく本名で役者をはじめとした表現の活動を行ってきた私にとって名前は名刺も同然である。そして最近は講師としての仕事も少しずついただけるようになってきたところなのだ。

私にとって名字と名前、この2つは揃いでアイデンティティでありキャリア証明のためのライセンスだった。

「だったら結婚しなければいい」
「別の男を選べばいい」

世間は平気でそういうことを言う。

でも違う、私だって愛する人に字を捨てさせたいわけではないんだ。
私と同じ葛藤を味わって欲しいわけではないんだ。

◎          ◎

この日本では、男性が字を変えると

「なんで〇〇君が字を変えたの!?」
「婿養子になったの?」
「奥さんのお家がお金持ちなの?」

などくだらない質問で人生が溢れかえる。

女性が字を変えても

「おめでとう!」

で済むのに。
(本当は何もめでたくなんかはない)

私の『これまで』と彼の『これから』を私が無言で天秤にかけ、勝手に彼の『これから』を選んだだけのこと。それだけのことがどうしてこんなに口惜しいのか。

◎          ◎

今までに結婚した友人たちも、名字を変えなかった子など1人もいなかった。世間は「女性が名字を変えた」という結果しか見ないから、私たちが何も思わず、むしろ喜んで名字を変えたとまで思うようだ。

皆んなが夫婦別姓を待ち望んでいた。4ヶ月前に結婚した友人も、昨年に結婚した友人も、5年前に結婚した友人も。そして30年前に結婚した母も。

選択的夫婦別姓の議論が遅々として進まない。今の状況は強制的夫婦同姓だ。表現を変えるだけで如何に理不尽に力づくで維持している制度か解像度が増すだろう。
そして名字変更の経済的負担、時間的負担、精神的負担は全て名字を変える側、つまりこの国では結婚する9割の女性が背負っているのである。

◎          ◎

その事実を目の前の、困り眉だけしていればなんの負担も被らない男は分かっているのだろうか。
この酒場の男たちは分かっているのだろうか。

家に帰ってペンを執った。
それをそのまま載せたいと思う。

◎          ◎

20230705 きしかいせい

愛情を盾に名前を奪われる
常識を盾に名前を奪われる
面子を盾に名前を奪われる
私たちは

仮の名前だったのか
仮の人生だったのか
今までの私の積み上げなんてものは
「名前が変わったくらいでなくならない」
本当にそうかしら?

そうして私たちは
優しいことにされて
愛されていることにされて
名誉なことにされて
自分の名前すら守れない

「そんなに固執することないじゃないか」
「そんなに気にすることないじゃないか」
…執着もなくこだわりもない
あなたが名前を棄てればいいのに

私たちは
女たちは
過去も今も
分断させられ
切り分けられ
96パーセントは意思がなかったことにされ
4パーセントが我儘だったことにさせられる

権利を根拠に選択したことになっている
柔い綿のような首輪を巻かれて
引きちぎることもできるのに…
そうしないことを意気地なしだと言われ
そうすることを常識知らずだと言われる

私たちは、自由だということにされている

◎          ◎

名前を書こうとして手が止まった。
私はこの日、詠み人知らずになった。