Twitterという名前がXになりアイコンから鳥が消え「ツイート」ではなく「ポスト」に変わったのにもようやく慣れてきた。

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一方で、このアプリの使い方はアップデートされるどころか無法地帯と化している。
やれ炎上、やれインプレゾンビ、そして目を塞ぎたくなるような情報の量。

アプリが誕生してからどれだけ月日が経っても、アプリの仕様が変わっても、ポストする文章を打つ画面にうっすらと見える「いまどうしてる?」の文字はずっと変わらずそのままで。

そうだったよな、私が学生の頃は「ライブなう」「お風呂わず」なんて自分のことをリアルタイムで共有する場所だったよな、ってふと過去に思いを馳せる時間が増えたよう気がする。

そんな最中、私の推しが炎上した。テレビで語っていた内容が、悪意のある切り取り方をされた。その大元のポストは瞬く間に拡散され、増えていくインプレッションとリポストの数字を見てじんわり手に汗をかいた。

「どうかこの文字たちが、一文字足りとも彼の目に入りませんように」と願いながら眠りについた。

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3日も経てばタイムラインではもう別の誰かの話題が注目される、手のひらサイズの中の大きな世界。

世間は忘れるかもしれないけれど、心ないいろんな言葉を目にした私は忘れるなんて出来なくて、自分の心の痛みと、彼に対する「大丈夫かな、ご飯ちゃんと食べているかな」という不安でしばらく経っても疲労感が消えなかった。

それ以降、テレビや雑誌を見ていても「この言い回し、炎上しないかな」「この一文、揚げ足取られそうな気がするな…」という視点を持ってしまい、彼を信じられない自分に嫌気がさしたりもした。

正直、アプリひとつでこんなに心が左右されるなんて想像していなかった。

だから私はXのアプリをアンインストールした。「X断ち」をした。

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最新情報が追えないのはもちろん、「あの表情好きだなあ」「今日アップされたYouTubeの3:58めっっっちゃしんどい」みたいな投稿が出来ず、相互フォローし合っている「推しが好き」というただ一点で繋がったオタ友たちのポストにいいねやリプライをする習慣もX断ちしたことで消えてしまった。

Xを正しく楽しく使っていた自負のある私にとっては、タイムラインというのは「家族・友人・職場とはまた別の自分でいられるコミュニティ」であった。

タイムラインを追わない日なんてなかった私にとっては、見ていない間のオタ友のポストが気になったり、また彼が炎上していたらどうしよう…とソワソワしていた。
が、そんなのも2日経ってみればなんてことなかった。
最新情報を取りこぼす不安に比べたら、あの酷い言葉の矢を見ない選択肢の方が何億倍もマシだった。

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1ヶ月半ほどの期間、私は「X断ち」をしたわけだが、その結果私は推し活に対する「使命感」というものがなくなった。

「リポストしなきゃ」
「リアタイしてハッシュタグつけてポストしなくちゃ」

のような「〜しなきゃ」という自己満足と表裏一体の使命感が消えた。
暇があれば常にスクロールしていたタイムラインがなくても、毎日ちゃんと楽しく生きていけた。

そりゃあもちろん、彼がもっと知名度があがって、ファンが増えて、仕事の幅が広がるために我々が出来る数少ないチャンスの場であるのは間違いない。昨今のSNSがもたらす影響力を見ていれば分かる。

でもあのX断ちした1ヶ月半の間、好きなペースでゆっくり、じっくり推しのコンテンツを味わう時間が、自分にとってなんだか尊くて。
自分の中で彼への気持ちをじんわりと消化して「ああ、やっぱり好きだな!最高だな!」と心の中にそっと思いを閉じ込める感覚が新鮮だった。

好きだと思ったことを、好きなときに、好きなだけ見聴きしてみると、自分の生活リズムに馴染んでくれて、とても心地よい日々を送れていた。

タイムラインを追う手を止めたとき、SNSと自分の本当に正しい距離感と、新たな推しの魅力に気づいた。

定期的な「X断ち」、悪くないかもしれない。