秋はいつもあまかった。母と父の誕生日が9月にあり、10月は叔父と私と祖父の誕生月だ。冬手前の11月はじめには親友の誕生日もある。家族での食事、友人間のお誕生日会、そして、たくさんのプレゼントとケーキ。「おめでとう」で溢れたこの季節は、私にとって物理的にも比喩的にも甘く、そのあまさは、しあわせと同義であった。
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秋は必ず恵みで出迎えてくれた。あまいあまいこの季節が素晴らしいのは、何もそのあまさだけではない。夏のうだるような暑さや冬の厳しい寒さのような極端な気温に悩まされることもなければ、花粉症のしんどさもなく、穏やかな気候でいつも晴れた気分でいられる。
そして、秋の情景のなんと美しいことだろう。紅や黄に色づいた葉が飾る並木道に人の心を打つものがあることは、この時期、紅葉の名所に人が殺到することからも明白である。澄んだ秋の朝と、やわらかい午後と、私たちを包み込むような夕暮れと、ささやかな虫の音が残る秋の夜は、すべてが詩的だと感じざるを得ない。
また、秋の旬も忘れてはいけない。ある日から香ばしい焼き芋のにおいが漂いはじめ、ハロウィン効果で街一色がパンプキン〇〇に染まりだし、ホクホクのたけのこと栗ごはんが私のおなかを優しく満たす。あらゆる自然の恵みで溢れた秋は、まさしく、しあわせの象徴であった。
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そんな私の輝かしい秋は、おととし、苦く染まってしまった。失恋という名の薬によって。当時私が好きで好きでたまらなかったひと。私の全意識を、心を、エネルギーを幸か不幸か注いでしまったひと。
はじめてのデートは10月初旬の中目黒のスターバックスで、2人でケーキを食べた。ほんの少し肌寒かったその日、そのひとは私の上着のフードの下に手をやって、「あったかい」と言った。帰り、改札前の信号は赤に変わったばかりで、私はそのひとの肩に頭をもたれていたけれど、「このままずっと赤だったらいいのに」とは言えずに、私たちはまた歩き出した。2回目のデートは初詣だった。でも新年の喜びは束の間、そのデートを最後に、私の恋は終わりを告げる。そのときにはもう、秋もとっくに終わっていた。
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今までの無邪気で純粋で平穏な秋は、もうない。きれいに磨かれた水晶のような神聖さの中に、消えることのないにごりが混じる。そして、そのあまさと恵みのしあわせを噛み締めるたび私は秋に、些細な、誰もわからない、決して気づかれない苦みを内に感じてしまうのだ。
私の秋は、これからずっと、一滴の墨翟を垂らした水のようであり続けるのか?あの秋の思い出は、唐揚げにかかった不可逆なレモンみたいになって、私の秋に深く染み込み、あるとき有した完全性をゆっくりと蝕んでいくのか?
完全性ーー そう、私にとって秋は、完璧だった。だがもうそれは過去なのである。いや、そもそも過去ですらなかったのかもしれない。その病的なあまさと理想化されたしあわせに身を浸していたけれども、そんな完璧な秋なんて、果たして存在していただろうか。
どんな秋にもきっと、白紙に残った消し跡くらいのノイズのようなものはあったに違いない。たとえば銀杏が臭かったとか、食べすぎて太ったとか、秋なのにちっともおさまらない暑さとか。しかし、こと大好きなもの、完璧だと思っているもの、そうあって欲しいと願うものに関しては、想いが強いほど、美化してしまうものなのだろうと私は思う。そして私たちは、それに気づいて受け入れることが必要なのだとも。
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秋は、これから私にとってどんな季節になるだろう。誕生日がやってくるたび、ケーキをこの時期に食べるたび、誰かが私のフードで暖をとるたび、私は多分あの秋の出来事を思い出す。
だが同時に、家族で行ったレストランや小さい時のハロウィンパーティーや、そのほかのことも思い出して、酸いも甘いも全て、その瞬間を刻みながら、私の秋が深く色づいていくのが楽しみだ。