小さい頃は自分の名字がどちらかといえば嫌いだった。どこにいっても存在する普遍的で面白みのないものであったし、小学校、中学校、高校の中では大体クラスに3人は必ず同じ名字の人がおり、現に今働いている職場にも自分を合わせて同じ人が3人もいる。
そんな風であるから、昔は小説や漫画に出てくるような西園寺、御手洗、一ノ瀬、といった漢字が3文字の高貴で気品溢れる素敵な名字に憧れたものであった。
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クラスにも少数ではあったがその様な一風変わった名字の生徒がいたため、まだ幼い私は表面的な他と違ってカッコイイ、という理由だけでその生徒の名字を羨ましがり、下に自分の名前を付けて自分がもしその名字になったら、という妄想をよくしたものである。
しかし、その考え方は大人になるにつれて少しずつ変わっていき、今では名字なんて多数存在する平凡なものに勝るものはない、という考え方に変化したのだから驚きである。
これには私なりに3つの理由があって、まず1つ目は「悪目立ちしないため」である。普通に生きている分にはあら、あの人の名字何だか変わっているわね〜と他人から言われるくらいで済むかもしれないが、自分が何かを起こした時、または自分の身内があまり社会的に良くない行いをした際に、名字があまりに珍しいものであると人物を特定されやすいという懸念があるように思う。
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「この名字は大変珍しく全国に◯◯世帯しかない」といった特集をしているテレビ番組を見た事があるが、もし私が何かを犯した際、そのニュースを見た自分の親戚の近所に住む人々はすぐに「あ、名字が同じだからあの家の人と関係があるんだ」とすぐさま特定されるような事態に陥ってしまうのではないのか。それは非常に恐ろしい事である。
しかし、一方で名字が平凡でありふれたものであればその様な心配をする必要はないのだから、万が一の事を考えるとやはりリスクは少ないに越した事がないように思われる。
2つ目は、現在の私の仕事が接客業であるという点に関係している。職場では仕事中、規則で胸元にネームプレートを付けなければならないのだが、接客をしているとそれをチラリと見て「◯◯さんて言うんだ〜」とわざと名前を読み上げられたりする事がある。これは中々不快な事であり、恐怖心を伴う場合もあるのだが、まだ自分の名字は普遍的、かつ同職場の他のスタッフにも同一の名字がいるという点もあり安心ができるのだ。これがもし物珍しい名字であったらそれだけで強い印象が付いてしまうし、記憶されると今の時代は色々物騒な事もあるので中々に警戒してしまうだろう。
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ここまでの2つはほとんど自分の身を守るための理由であったが、最後の3つ目は平凡な名字であるからこその利点、ともいえるのだろうか、周囲から名前で呼ばれる確率が多い、という点である。
少人数のクラス、職場などでは同一の名字がいない事も多いのでその場合は除外されるが、同じ名字が2人いた場合、かなりの確率でその際の呼び名は下の名前になる。私は、これを社会人になってから強く感じるようになった。
今の時代、上司が異性の部下を名前+ちゃん付けで呼ぶのはセクハラまがいに値する、なんて話を聞いた事はあるが、私の場合は新卒の会社で名字ではなく名前にちゃん付けの呼称で呼んでもらった事によって何となく周囲と打ち解けるスピードが早くなった気がしたし、それによる仕事の効率も上げる事ができたように感じた。
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勿論、あまり好意的でない相手から気安く呼ばれる事に対する抵抗はあるが、社会人になると同部署に同じ名字がいたりしない限り、周囲の人から下の名前で呼ばれる機会も中々ないように思う。物珍しい名字の人は友達からもそれ以外からも大体名字で呼ばれるような気がするので、平凡ならではのあるあるな気もする。
子供の時は名字が珍しい事によって発生する諸々のリスクなんてほとんど考えたことがなく、ただ目先の響きの良さに魅了され憧れていただけであった。
大人になり色んな要素、懸念を考えた上で普遍的な名字の方が総合的に見て生きやすい、という考え方になったのは少々現実的すぎるようにも思う。しかし、何やかんやで私は自分の名字を気に入っているためもし結婚等をして変わる事があっても、それまでの間自分のこの名を大事に生きていきたい。