正直、私は名字について考えたことはない。好きも嫌いもなく、生まれてきたときからある名字に疑問すら持たなかった。
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私の名字は、いわゆる普通のものである。難しい漢字でもなく、ごく一般的にありふれたもの。だから名字という存在に悩まされたことはなかった。一つ挙げるとすれば、学校の出席番号が遅めだったこと。でもそれが理由で困ったことはほとんどない。
小学生、中学生のときは名前で呼ばれることが多かったが、高校生になると名字で呼ばれることが増えた。地元の高校ではなかったため、新しい環境に新しい友達、そして新しい呼び名。今まで日の目を見ることがなかった名字に、はじめて愛着が湧いた。名前で呼ばれることも好きだったけれど、名字で呼ばれることも親しみがあるような気がして悪くないと思えた。
社会人になると、当たり前のように名字呼びになった。仕事をする上で、大人としての関わりになる。段々と名字にさん付けが当たり前になり、自分も相手をそう呼ぶことに慣れていく。親しみというよりも、一定の距離を保つには必要なマナーだと感じた。
ただ、ある程度の関係性が出来たひとからは、名字にちゃん付けで呼ばれるようになった。少しだけ距離が近くなった気がして嬉しかった。これはこれで大人になってからの形。名字にひととの繋がりが増えていく。なんだか自分らしさが広がっていくように感じた。
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そして私は結婚をして名字が変わることになった。どちらの名字にするか。お互いにどちらの名字でも良いという価値観だったけれど、「結婚したら名字が変わる」ことに憧れていた私は、変えることを前向きに選んだ。名義変更の手続きは思ったより大変だったけれど、それと同時に新しい家庭をつくることへの覚悟と嬉しさを感じていた。
名字が変わっても生活に大きな変化はなかった。ただ、高校のときから付き合いのある友達と会ったとき「もう名字変わったから、呼び名変える?」「そんな寂しいこと言わないで、呼んでよ」そうだよね、なんて話して笑い合って。今さら呼び名を変えることなんて出来ないのに。私たちの名字は変わっても関係性は変わらないのだから。
もうすっかり新しい名字にも慣れて、呼ばれることも書くことも戸惑いはなくなった。今の名字になってから出会ったひとも増えた。それでもこれまでの名字を離れて寂しいと思わないのは、まだその名で呼んでくれるひとがいるから。どちらの名字も私で、思い出もたくさんある。だからどちらも私の中で生きているのだ。
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私は名字にそこまで執着はなかった。だから変わることも変わらないことも、前向きに考えられた。女性は結婚したら名字が変わる、という当たり前もいつかはなくなるかもしれない。なんだか女性の小さな憧れがなくなる気がして寂しい気もする。だけど世の中が平等で自由を謳うなら、結婚する自由も名字を選ぶ自由もあって当然だと思う。
名字や名前は選ぶことは出来ない。だけど変えること、変えないことを選ぶことは出来る。私にはなりたい名字や名前はないけれど、今あるものを大事にしていきたいと思えるようになった。それはたくさんの出会いや経験が私の名前に彩りや価値を与えてくれたから。
名字を失いたくないひと、早く生まれ変わりたいひと。様々な価値観がある。だけどあくまでも名字は自分の一部で、それをどう扱うかは自分次第。私は今の名字での人生を長く過ごしていく予定だけれど、年月を重ねるほど自分に似合うようになってきたと思う。どの選択肢でも間違いはない。ただこの自由がある世の中だからこそ、変わることも悪くない、とあえて言ってみようと思うのだ。