近年性別にかかわらず好きな服を着たりネイルをしたり、メイクをする人達が増えている。私は生物学的に女性であり、性自認も女性である。そんな私は可愛い服よりもメンズライクの服装をする事が多いし、髪の毛も短髪で、かっこいいと言われるほうがかわいいと言われるよりも多いような人間である。
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私は皆が着たい服を着れる様な社会であって欲しいと心から願っている。しかし、これまでの生活において性別はとても大きなファクターであった。初めてあった人に対してまず性別に関して考えている自分が居る。
最近多くの高等学校で制服を自由に選べるようになった。
私は大学で高等学校の理科教諭免許を取得するためのカリキュラムを履修していたため教育実習のために母校である高等学校にお世話になった。
私が学生時代の制服は
男子:ズボン、ネクタイ、ワイシャツ
女子:スカート、リボン、ワイシャツ
であったが今は女子生徒でも多くの学生がネクタイを巻いているし、ズボンを履いている学生も見受けられた。
ぱっと見ただけでは性別がわからない様な学生も複数居ると感じた。ここで私は自分の中にある性別に対する意識が想像以上に強い事に気がついた。私は無意識に、しかし確実に出会う人間全てを男と女に分けていた。性別の判別に用いているファクターはその全てが意識的に私が男性も女性もそうであって良いと考えていた事である。
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例えば髪の毛の長さや身長、服装、持ち物、声色、などである。短髪で男みたいと言われる事を嫌っていた。髪の毛の長さで性別を規定される事を嫌っていた私が、小さい頃にピンクではなくて青色の服が着たいと思っていた私が、ふわふわしているプリンセスよりも戦隊物を好んでいる事を変な目で見る大人をあれだけ嫌っていた私が、今は学生を、私をただ2つしかない枠の中に押し込もうとしている。
最近男性の「選択肢の狭さ」が私は気になる。女性に対する差別に対して声を上げやすい環境が整えられて来ているからなのかもしれない。実際にセクハラやパワハラなどで声を上げる事ができない深刻な状況に陥っている人も居る事は知っている。ただ、日々の生活の中にある些細な生きづらさについて女性は声を上げやすい環境が整えられてきていると私は考えている。
逆に男性は深刻で致命的な差別や被害を受ける事は比較的少なくても擦り傷程度の痛みは女性と同じかそれ以上に感じているのではないか。けれどもその点に関しての議論は進んでいないのではないか。
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なぜ男女ともに苦しんでいるのにこんなにも性別に対する差別や偏見は無くならないのだろうか。なぜ私は私を傷つけることを知っていてもカテゴライズをするのだろうか。潜在的な意識なのだろうか。なにかわからないものと対面した(対峙する)とき、人間は恐怖を感じるそうだ。
男か、女か、カテゴライズする事で安心感を得ようとしていたのかもしれない。男性、女性、若者、年寄、かわいい、かっこいい、不細工、色々なカテゴリーに分ける事で私達は安心する。見た目と内面を結びつけて他人をわかったふりしている。その一つが性別である。私はそう思う。生物学的な性別に関して人間は確実に2種類に分ける事ができるのだ。
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人は見かけによらない事がほとんどだと私達は知っているはずなのについ先入観に制御されてしまう。様々なファクターをかけて私は、社会は、人を視る。どれも他人の内面と関係ない事を知っていながらそれでもカテゴライズしてしまう。
私から始める。貴方がどんな人でも大丈夫だと私が私に対して信頼を寄せる事がそのためには大切なのかもしれない。