料理をあまりしないまま25年が経っていた。ずっと実家暮らしだし。レシピを見ずにほどほどの味で作れるのはオムライスくらい。ソーセージとタマネギを切って炒めて、ご飯とケチャップを合流させたら、あとは上に載せる卵を焼いて完成。それだけ。
昨年は、「お弁当くらいは作ろう!」と元日から意気込んで新品のお弁当箱とお箸を買った。はじめの3ヶ月くらいは簡単な作り置きを作ったりして順調だったけど、日が進むごとに朝早くに起きられなくなり、作り置きができなくなり、気付いたら冷凍食品の詰め合わせ弁当になっていた。
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「あー、このままでは、いかーん」と思っているうちに仕事はどんどん忙しくなり、毎日帰宅が10時を過ぎた。帰って、母が温かいご飯を出してくれる度、感謝と同時に申し訳なさが募った。これでは、家事をパートナーに丸投げしているサラリーマンみたいではないか。甘えている。申し訳ない。
しかし、仕事は忙しいままで、自分が早く帰って食事を作るどころか、冷凍食品弁当すら作る気力も湧かず、気付いたらコンビニのおにぎり、気付いたらカロリーメイト、気付いたら昼食も抜く生活になった。
そして昨年の年末、いつもなら大好きでワクワクして食べるコンビニのパンが喉を通らなくなった。体調が諸々悪くなっていた。仕事は、休職した。
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休職して、今までの罪滅ぼしの意も込めて「夕飯は私が作るから!」と家族に宣言した。とはいうものの、元来料理をしない私。レシピ通りに順序立てて作るのが苦手なんだよなぁ、と思っていたある日、ラジオから料理研究家の土井善晴さんの声が聞こえた。それは、著書の『一汁一菜でよいという提案』に関する話だった。
早速本屋で購入し、読んだ。本書は、「ご飯を炊いて、漬け物を用意し、好きな具材を切って鍋に入れ、お味噌を溶いたら十分な食事である」(『一汁一菜でよいという提案』土井善晴 2016年 グラフィック社)、という内容から始まる。
最初の数ページで、「なるほど!」と自分の中で一気に料理のハードルが下がった。その日のお昼ご飯では、にんじん、タマネギ、餅を沸騰した鍋に入れて味噌を溶き、食べた。美味しかった。
それに、シャキシャキと野菜を切る音、沸騰した鍋から立ち上る湯気、グツグツと煮る音、味噌の匂い……。作る工程も含めて、私は、心も、お腹も満たされていくような気がした。
「料理って、結構楽しいかも」
超簡単な料理だけど、人生で初めてそう思えた。それからは、夕食の主食、主菜、副菜を考える日々を送った。
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休職して1ヶ月経った頃、大根と豚肉の煮物を作ることになった。母が、「私の味付けはテキトーだから最初はこれを見た方がいい」と言って取り出してきたのは、かなり古い料理本だった。1976年に出版された、煮物と和え物に関する本だ。今時の料理本みたいな丁寧な写真は少なく、作る目安時間も載っていない。
フムフムと読み進めるうちに、下ごしらえ欄に、「大根は、米のとぎ汁に塩小さじ1を入れた水でゆでると味よくゆだる。」(主婦の友生活シリーズ『四季の煮物とあえ物』 主婦の友社 1976年 p.32)とわざわざ写真付きで書いてあった。
衝撃的だった。この衝撃を母に伝えたら、「そうだよ」とケロッとした顔で言われた。
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料理をよくする人にとっては常識なのかもしれないが、私にはとても新鮮だった。何かと忙しない現代、レンチンレシピやワンパンレシピといった「手間をかけない技」に巡り会うことはあっても、わざわざ大根だけを米のとぎ汁で下ゆでする、という「手間」やその知識にたどり着くことはなかなか出来ないからだ。
早速、面とりした大根を米のとぎ汁で下ゆでし、豚肉も別で下ゆでし、調味料を入れて煮た。グツグツと調味料と水が唸る音がし、落としぶたの隙間から美味しい匂いが立ちこめた。
煮物を夕食に並べると、父が「味がしみてて美味しい!」と言ってくれた。家族に食べてもらおうと、少しだけ手間をかけた料理は、休職前には考えられなかった景色を私に教えてくれたのだった。