楽しくて濃密な時間を過ごした後、無性にさびしくなる。しあわせな時間を過ごした事実は消えないのに、記憶が薄れていくのが嫌なのだろうか。とにかく、さびしい。
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このさびしさと真正面から向き合おうとしていた時期もあった。でも毎度のように身体の調子まで悪くなってしまうから、真正面から向き合うのはやめた。さびしさの気配が見えたら他のことに集中するようにしている。だからわりと常に動いている。
パズルのように予定を組み合わせて入れ込んで、できる限り隙間を無くしている。たとえば、旅行から帰ってきてすぐにオンラインmtgを入れていたり、夕方までの予定のときはレイトショーに行ったり。
さびしさを消すことはできないけど、隣に置いて視界に入れずにおくことはできる。
友人を一人亡くしてからは「ずーっと動いてるよね」とよく言われるようになった。彼女の年齢を追い越してからは、さらに言われる頻度が増えた。生き急いでみせることで、どうにも埋まらない穴を見つめる時間を減らそうとしているのだろうか、と考えるたびにたまらなくさびしくなる。
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友人が亡くなってから数年、大学生になって交友関係が広がった。今のところ出会っているひとの大半が年上だ。親子ほどの歳の差のひとはもちろん、「孫と同じくらいの歳だ」と破顔されることも多い。
自然の摂理に則るようにして考えたら、わたしが遺される側だ。常にそれを意識して接しているわけではないけれど、ふとこの考えが過ぎるたびに、出会いはその先の別れと絶対にセットであると強く意識させられる。素敵な関係が長く続きますようにと願いながら、それが永遠のものじゃないことを考える。
ひとと別れるのはさびしい。でも、それなら出会わなければ良かったかというと、そんなことは絶対にないと言い切れる。だって出会ったひとたちからもらったものが多すぎる。ひとと出会うからさびしいけれど、そのさびしさを埋められるのもまた出会いだと思う。
素敵な出会いの後とか、たまに、さびしさを見つめてほぐしてあげられそうな余裕があるときがある。そういうときは今までに出会い別れた人たちが今のわたしを見たらなんて言うのかなと考える。少しわくわくして、少し怖い。いや、ほんとうは結構怖い。失望させないだろうかって不安になる。
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6年前、わたしは心底絶望して、どん底に落ちて、そこからどうにか歩いてきた。出会う人たちに手を引かれ、目の前のチャンスに飛びついて生きてきた。その軌跡がこれからどんな意味をうむのかなんてわからない。
だって一年前には今の環境を想像すらしていなかった。だけど、いつかわたしの軌跡の先で、誰かが、会いたいひとたちが待っていてくれるのなら、とりあえず今は出会いを大切にして走り切るしかない。一年先すら想像できない日々の中で生きることを、楽しむしかない。ビールの泡が溶けていくように、海に流れたガラスの角が丸くなっていくように、ゆるやかにさびしさと一緒にいられるように、わたしは誰かと出会いつづけている。