「明るくてポジティブ」
「真摯」
「真っすぐで前向き」
「自分の道を自分で切り拓く」

これは、わたし自身が得てきた評価の一部だ。
あくまで一部であり、もちろん悪い面の評価もあることは言うまでもない。

◎          ◎

この、冒頭に挙げたことばたち、わたしのわたし自身に対する評価とはかなり乖離している。なんだかわたしじゃない人の話をされているみたいに感じてしまう。

わたしは、ネガティブで根暗で、陰湿だ。

仕事に行きたくない、どころか、なにもしたくない、とソファに体を投げだして眺め続ける液晶画面。
唐突にどうしようもなく襲われる虚無感。
気を付けなければ愚痴など一日中吐いていられる上に品のない言葉遣い。
人の不幸は蜜の味とばかりに漁る他人のSNS。

そんな毎日だ。
人間の成れの果てって多分こうだ。

◎          ◎

でもどうやら、みんなから見ると少し違っているみたいである。
もちろん、本人を相手にして発したことばなのだから、酷い言い方をしないでくれたみんなからの配慮という意味で、より肯定的な表現になっているということはあるだろう。

だとしても、どうしてそんな風に言ってくれるんだろう、と不思議に思うばかりである。

確かに、わたしは自分のネガティブな部分を、他の誰にもほとんど見せたことがない。見せようとも思わない。

きっともっと大変で、辛くて苦しい日々を送ってきた人だっていっぱいいるのだろうし、自身の陰鬱な生い立ちで何かを得るなど、わたしの信条からは大きく外れている。
不幸自慢は嫌いだし、「可哀想」「頑張ったね」「偉いね」なんて取ってつけたようなセリフなら何も言われない方がマシだった。

◎          ◎

わたしがネガティブを外に出さないのは、見栄であり、意地でもある。
外では気を張っているということでもある。

誰もわたしのことなんか理解してくれない。
そんな思いも奥底にどす黒く滲んでいる。

書き綴ってきたエッセイを読み返してみても、ネガティブな言葉に溢れていると思う。

◎          ◎

だが、そこで気づいたのは、同じ分だけポジティブな言葉も綴っていたということである。

エッセイに書く思いは結構本心だ。
わたしはわたしが思っているより、ポジティブなのだろうか。
みんなから見えているわたしは、ちゃんとわたしなのだろうか。

いわゆる陽キャは苦手だが、陽的な交流の場をわたしは知っている。
Instagramから覗く世界は眩しすぎるけれど、その裏側はきちんと陰っていることをわたしは知っている。そんなキラキラした世界をわたしも持っている。
わたしが発する言葉は汚いけれど、好きなことばや美しいことばをわたしは知っている。いくつも得てきている。
デフォルトはだらけているけれど、スイッチの入れ方やモチベーションの保ち方をわたしは知っている。

時々は上向きである。
人間ってやればできるのかもしれない。

◎          ◎

ポジティブなことばをかけられるたび、ポジティブな評価をいただくたび、わたしは恐縮するしかなかった。
ポジティブなど似合わないと思っていたし、その姿はわたしではないと思っていた。

わたし自身、底抜けに明るいだけの人は苦手だった。
雑談をしていても、相談事を話していても、拭いきれない違和感だけがいつも残った。

でも、たぶん、わたしのポジティブはそうじゃない。
みんなが言ってくれたことも、正しかったのかもしれない。

ネガティブであり、ポジティブであるという、両面をもっていることはきっと良いことなんじゃないだろうか。
だって、どちらの気持ちも知っているから。
どちらかだけで判断してしまうことがないから。

少なくとも、わたしが抱くような違和感を持たせてしまうことは避けられるかもしれない。
寄り添ったり、分かり合ったりできるかもしれない。

ネガティブなわたしは、実はちゃんと、ポジティブでもあったんだ。