一人でいることに特に疑問を持たずに過ごしてきた。中学生の頃から一人映画館を満喫し、高校生のときに一人ビュッフェをしていたのだから多感な思春期に大したもんだなと思うときがある。集団での行動が苦手で、三人組になれば三人組のはずなのに結局余りの一になるし五人組になれば堪ったものではない。

私ができるコミュニケーションは基本的に最大数が二で限界が見えている。そういえば、高校生の頃同級生と後輩七人で地元の大きい祭りに行き・三に別れようと提案をしてそのうちの一番仲よかった子と盛大に喧嘩をしたことを思い出した。その子曰くわざわざ分かれるのはみんなで来た意味がないということだった。至極真っ当な意見だと思う。自分の不甲斐なさにため息が止まらない。

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人間と接するのが人より苦手だという自覚は充分にある。それでも寂しいときがくる。寂しいという感情は少なくとも私には本来から設定されているようで、どうやら取り外すこともできないようなので寂しさの根源については探究しない。

一人が平気と寂しいは両立する。夏の終わりの日暮れ。冬の寒さ。数少ない友達に彼氏ができたとき。これらが猛威を振るってきたとき、私は精々手足の末端が冷えてくるのを温めること以外なす術がない。しかも手足が温まったとて、心に穴を開けた寂しさが消えることはない。

じゃあこのぽっかり空いた穴をどうやって塞いでいるのか?それに私は最近やっと自覚的になった。そして、その手段とはラジオ番組だった。

私がよく聴くのは深夜の生放送の番組。オールナイトニッポンの名前を冠したものが多い。今になって振り返るとラジオに特に熱中していた時期は、高校に上がったばかりのそれまでの友人と進路が別れたとき、地元を離れ大学進学したコロナ禍、大好きな友人に恋人ができた就活時期、上京して社会人生活をしたとき。

人生の転機!みたいなときはどうしても取り巻く環境や周りの人が変わるから、もっぱらラジオを聴いていた。反対に学校に慣れて充実したときは遊ぶのに夢中でラジオを熱心に聴くことは減る。

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どうしてテレビやその他のメディアではなくラジオなのか。それは生放送で同じ時間を共有してパーソナリティーがリスナーに向き合ってくれるから。いつも聴くラジオネームの人に対して身勝手に親近感を抱いてしまうほど距離が近いから。まったく番組の終盤になりエンディング曲が流れてくるとまた別の寂しさがくるのだけど、その時にはもうまどろんでいる。

ラジオを好きになるきっかけでもあった「菅田将暉のオールナイトニッポン」は個人的にもうかけがえのない思い出になっている。菅田将暉さんが日本アカデミー賞授賞式に出るとなった暁には自分ごとのようにお祭り騒ぎ。

リスナーだけが分かるハンドサインを授賞式の途中にやっているのを見て大歓喜。私の青春は「菅田将暉のオールナイトニッポン」だと言いたくなるくらいにはこの番組に生活を委ねていた。その他にもCreepy Nutsや星野源さん、今や降板してしまったけど一際うるさかったアイツだって全部私にとっては寂しさに寄り添ってくれた人だった。

遠いのはそりゃそうなんだけど、それでも近いと思える不思議な距離。それが私にとって居心地がよかった。どこに住んでていても、どこから聴いていても番組を聴いているときは心は有楽町だった。

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今年の三月に私は大学を卒業した。四月に番組の改変があった。新しくパーソナリティになったアーティストは大学のゼミの友人が好きな人だった。そのラジオ番組の話がきっかけで、大学生の頃は二人で会うことはなかったのに、短いスパンで何度か二人で会うようになった。

寂しさを埋めてくれていたラジオがリアルな場での新しい人間関係まで持ってきてくれるなんて粋なことしてくれてるじゃん、とまた一段とラジオが好きになる。