私は大人数が怖い。私の中で大人数は3人以上。これより多くなると人と一緒にいることが嫌になってしまう。2人であれば相手のベクトルも自分に向くので話の矛先がブレることはない。しかし、3人以上になると、話の矛先は私以外に向くことがある。
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私の体感であれば、私が関わるときは頻繁に起きており、最終的に私以外の人たちで話に花を咲かせている。学生の時、クラスの打ち上げや部活の飲み会など大人数の場面に参加することはたまにあったが、行けば必ず精神的な疲れを持って帰ってきた。
たまには、と思って足を運んでみるものの、何度参加しても疲弊感は変わらず。むしろ毎度大きくなっていくのではないかと感じた。大人数の飲み会や集まりを企画する人はきっとこういう集まりを楽しんでいる。とても不思議だ。大人数が好きな人に1日だけなってみると発見はあるのだろうか。そんな疑問を浮かべては、知ってもきっと疲れるだけだ、と思う私もいる。
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私は1人でいることを寂しいと思わない。1人でご飯に行くことも、どこかに出かけることも平気である。そのため、より一層大人数でいることにとても疲れを感じやすいのかもしれない。ご飯くらい静かに食べたいと思っているのかもしれない。
確かに、毎日暮らしていても、家族や友人の声がない食事が全く苦にならない。テレビの音は自分に都合よく音量を調節でき、面白い番組を見れば良いのだから全くストレスではない。番組の内容に笑っていることもあるので、むしろ楽しんでいると言う方が正解だ。
大人数だとそれができなくなる。自分が楽しいと思う音だけを聞く、反応するということができなくなるので、窮屈に感じるのだろう。誰かの恋バナや噂話より、好きな番組を見ていた方がよほど有意義な食事の席だ。食事を楽しみ、美味しいものを味わって食べ、ペースを乱されることなく食事を終えることは、案外私の中で大きな満足度を作り出しているかもしれない。
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また、こんな性格や居座りかたが災いしているのか、かなりの確率で最後の残ったご飯を食べているように思う。話し足りない人はあちらこちらへ席を移動し、自分のグラスさえ持たず話を永遠に続けている。
そんな人たちが最初に座っていたテーブルに残っている私は、美味しいところだけを食べ、切れ端が残った皿をキレイにする。まだ食べている姿が目に入ったのだろう。
こっちにもあると残った皿を私のテーブルに集め始める人もいる。その人なりの優しさかもしれないが、全く優しくもなんともない。そのまま何もせずに話していれば良い、気づかないでいてくれることの方がよっぽど優しさになると思う。
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結局こうなる、という結末が見えているので大人数で行動するのには気が重い。そうなればやっぱりな、と思う反面、想像した通りにならなければどうしようという懸念も生まれる。大人数は展開が読めないところも怖いと思う理由のひとつだ。
ひとりで、あるいは少人数で予想できる範囲の行動をするほうがどんなに楽か。予想できないことでも、自分だけの出来事なら対応できるだろう。私が良しとする方法でなんとかできる点もメリットだと思っている。自分だけの責任で自分だけで動くほうが気楽で楽しさもあるので、大人数での行動はできる限り控えたいとさえ思う。
知ってか知らずか、まわりから声がかかることはほとんどない。これがせめてもの救いなのかもしれない。いつもと変わらない平穏な毎日があり、刺激的なことを常に求めていないので、これくらいの人付き合いがちょうどいい。
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大人数を好む人の傾向として、交友関係は広く浅くあるだろう。もちろん、頼れる人脈を持っているのは羨ましいが、私は狭く深くが理想だ。ふとした時に気兼ねなく会える人、話せる人が何年もいてくれた方が心強い。学生時代から今まで、大人数が怖く、なかなか克服できない私。
大人になり、社会に出たのだから、かならずしも全ての人と関わらなければいけないわけではない。学校とは違うので、クラスメイト全員と仲良くしなくても良いのだ。たまに関わるくらいで、これ以上怖さを増強させない距離を保とうと思う。