イソップ寓話の『アリとキリギリス』は、計画性と楽観性を対照的に示した童話だといえるだろう。私は、直感を大切にする楽観的なタイプだ。好奇心も旺盛で、色々なことに興味を持つことができる。そんな私の2025年のなりたい姿とは、アリである。
これまでの私は、キリギリスだといえる。今を大切にすることとは、すなわち今を楽しむことだと考えていた。キリギリスな私を表す出来事は、高校生の時の定期試験である。

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「勉強はいつでもできるけど、制服で遊べるのは今だけだもんね!」定期試験1週間前の私が、学校帰りに寄ったゲームセンターでのことばだ。

キリギリスな私は、学生の時にしかできない経験を楽しむことが今を大切にすることだと考えていた。学生の時にしかできない経験とは、学校帰りにショッピングモールに寄ることや教室に残って黒板にお絵描きをすることなどだ。そのため大学受験にも関係する定期試験の勉強よりも、遊ぶことを優先していた。

更に、真面目に授業を受けることを恥ずかしいことだと考えていたのだ。これが、キリギリスな私だ。

このことからキリギリスの視点とは、盲目的で非常に狭い視野しか持っていないといえる。今について、楽という観点からしか捉えることができないのだ。つまり高校での授業や定期テストも、高校生であった頃しかできないことだということに気付くことができていなかったのだ。

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アリな私であれば、今を充実させるということを遊ぶことではなく、違う方向に向けていたはずだ。今を充実させることとは、遊ぶことだけではない。努力や忍耐も、今を大切にするということなのだ。

しかし、どの社会にも努力を嘲笑う者は必ずいる。そんな嘲笑には目もくれないで努力することが、アリにみられる姿勢である。つまりアリとは、広い視点で物事を捉えて自分の進むべき方向へと進んでいくものだといえる。

一つの物事でも、自分の向き合い方によって変わった結果が得られる。結果とは常に、自分の向き合い方次第で得られるものなのだ。私もキリギリスの生き方をして実感したが、キリギリスとして生きることが与えるものは、一時の楽しさだけである。その後に、後悔を味わうことになるのだ。

一方でアリの生き方がもたらすものは満足のいく結果や充実度、幸福度などである。そして、それらは長い期間をかけて自分に良い効果を与えてくれる。努力から得たものは自分の糧になり、人生を充実させてくれるだろう。

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人は自分の心によって、アリにもキリギリスにもなることができる。

『アリとキリギリス』の物語の最後は、キリギリスがアリの努力を笑っていたことを反省した。これは『アリとキリギリス』の物語の中だけの話ではないだろう。人とは成長していくものであり、自分の行いを反省しながら生きていくものだ。

キリギリスの生き方をしていた私は、今の楽しさを優先することによって逃げ癖がついてしまった。「いつかやろう」「また頑張ればよい」という曖昧な目標ばかり立てていた。

そして、目標を先延ばしにすることによって後から焦っていたのだ。例えばレポート提出期限の直前からレポート作成に取り掛かることも、キリギリスな一面だといえるだろう。

自分に根付いたキリギリスの一面を消し去り、アリへと変化していくことは非常に難しいといえる。しかし、物事に取り組む際にアリならば今どうするかということを考えることが、成長する一歩だといえる。

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今年はアルバイトと就職活動を両立させながら、学業にもより一層励んでいく年である。

これからは、自分にとって本当に大切なこととは何かということを、計画を立てる際に中心にして生きていこうと考えた。そのため、アリのように今を充実させることを未来へと繋げていく生き方をすることを理想としよう。