何でもそうだと思うが、「初めて」は何年経っても本当によく覚えている。

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たとえば、彼から初めて振る舞われた手料理は、餃子だった。
私が当時一人暮らしをしていた狭い1Kの部屋で「今日は僕が餃子を作る」と得意気に宣言されたときは、嬉しさよりも驚きのほうが勝った。

というのも、私にとって餃子は「作るもの」ではなく「買うもの」だったからだ。
幼い頃からそうだった。実家の食卓に登場する餃子はスーパーのお惣菜売り場に並んでいる出来合いのものだったし、一人暮らしを始めてからも、餃子は同じくお惣菜か冷凍食品を買うかのどちらかだった。あとは外食の際、居酒屋や中華屋で食べるとか。

餃子を手作りするなんて、私からすると自宅で揚げ物と同じくらいハイレベルだった。ドラマの中の家族団らんシーンでしか見たことがなかった。

だからこそ私は「餃子だなんて、そんなに気合いを入れなくても」と内心焦った(私はそんなに気合いの入った料理作れないどうしよう…という気持ちの裏返しでもある)。

しかし彼は「餃子に気合いなんていらないよ」と、とても不思議そうに言った。彼曰く、餃子はこれまでに何度も作ったことがあるそうで、「手作り餃子の何が良いって、包む作業に没頭できるあの感じなんだよ」とのことだった。

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キッチンから響く、野菜を刻む包丁の音。刻んだそれをひき肉や調味料と混ぜ合わせれば、餃子のタネの出来上がり。
タネが入ったボウルをローテーブルにとんと置いた彼に、「包むの一緒にやろうよ」と誘われた。
丸い餃子の皮の真ん中にタネを置いて、皮の縁にほんの少し水をつけて、ひだを作りながら包んでいく。手順のイメージはちゃんとついているのに、初めて挑戦するその作業は想像以上に難しかった。

「うわ、タネが多すぎたかも。ビヨッて飛び出ちゃう」
「取る量、思ってるより少なくていいんだよ。これくらい」

「全然上手に包めないんだけど…見てこれ、ひだが全然ない」
「下手くそだねー。見てて、こうやってこうやってこうすればいいんだよ」
「…うーん、よくわかんないな」
「こんなに不器用だったとは」

不器用、認めます。異論なし。
それでも数をこなしていくうちに、何となくそれっぽい感じで包めるようになっていった。トレイに並べた餃子には成長の軌跡が確かに見えて、ちょっと嬉しくなる。彼の隣で、私も包む作業に没頭していった。休日のお昼どき、いつもより時間がゆっくり流れていく。

そうこうしてふたりで仕込んだ餃子たちは、フライパンの中でじゅうじゅう焼かれ、食欲をそそる匂いがたちまち辺りに立ち込めてくる。フライパンのテフロン、ちょっと剥がれかけてるかもと内心少し心配していたものの、餃子たちは無事底にくっつくことなく皿に盛られていった。

出来たてほやほやの餃子はジューシーで、白米がもりもり進む。「美味しいね」とどちらからともなく言葉がこぼれた。形のばらつきはもはやご愛嬌。

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こうして文章にしてみると、どうということのない、とある日の晩ごはんの話でしかないのかもしれない。何かびっくりするような出来事が起こったわけでもない。
それでも、あのときふたりの間に漂っていた空気は、今よりもやわらかくてやさしかった。付き合い始めてまだ間もない日々の幸福感は、あの頃だけのものだ。それがふと、懐かしくなることがある。

今が幸せじゃないとか、そういうことではない。でも、彼、ひいては夫と共に過ごす時間が長くなればなるほど、良くも悪くも関係が落ち着いてくる。「夫婦ともなるとなおさらそんなものだよ」と頭では思うものの、たまに、本当にたまに、わがままな寂しさを覚えることがある。何とも大人げない、やっかいな感情だ。

このエッセイを書くにあたり、試しに彼にこう聞いてみた。

「4年前、付き合ったばっかりの頃に私に初めて作ってくれたごはんって何だか覚えてる?」

軽い気持ちで投げた質問だったけれど、思いのほか彼は「待って、何だっけ」と結構真剣に思い出そうとしてくれた。

「多分、1品でほぼ完結する系だよね」
「うんうん、なるほど」
「2択で迷うな…」
「2択」
「おそらく、オムライスか焼きそばだと思うんだ」
「なるほど」
「いや、違うのか…?なんか違うような気もする」
「さあ、何でしょう」

洗濯物を片付けながらシンキングタイムを続ける彼と、そんな彼をキッチンのカウンター越しに眺める洗い物中の私。
これは多分ギブアップかなあ、と諦めかけたところで「あ、餃子じゃない?」とズバリ彼が当てにきた。口には出さなかったけれど、やっぱりこの人のこと好きだなあ、と私はこっそり噛みしめた。