「かわいい」を象徴するピンクを身につける人が羨ましく憎らしかった

わたしにとってピンクはいつだって「かわいい」と結びつく色である。
わたしは今も昔も「かわいい」という概念の信奉者であって、だから、ピンクという色は、わたしの目に常に神聖かつ特別に映るのだった。
物心ついた頃から、洋服や持ち物を選ぶとき、わたしがピンクのものを手に取ることはなかった。そもそも選択肢に入っていなかった。
ピンクは「かわいい」色だから。
「かわいい」というのはわたしにとって、美醜や老若、なんらかの物理的状態を表すというよりは、ある種のものに感じるある種の絶対的な良さを意味する言葉である。
「かわいい」という言葉は多分、実際にはそれぞれ異なる多様な状態のものに適用されている。「かわいい」ものに共通しているのは、それらがわたしとは次元が違う素晴らしく良いものだ(と感じられる)という点だ。
「かわいい」は、わたしにとって絶対的な価値を示すもの、つまりはなんらかの宗教を信ずる人にとっての神のようなものだ。
だから、(わたしの信ずる思想においては)人が神になることはないように、わたしと「かわいい」は決して交わることがないように思われた。
自らの身につけるものとして、躊躇なくピンクを選べる人のことが不思議だった。友達だったりクラスメートだったり、わたしと同じフィールドに生きているはずの人たちが、「かわいい」の概念に一歩踏み込む。
彼ら彼女らは「かわいい」の一部でありうるのだろうか?
彼ら彼女らはわたしと同じ次元の存在ではないのか?
わたしは「かわいい」の具現のようなピンクを身につけられる人のことを、羨むと同時に、「かわいい」を冒涜する存在と見なして憎みもした。
ピンク、「かわいい」の象徴、それは決して手の届くものではなく、手を伸ばしてよいものでもない。それは特別な存在にのみ許された、その特別さの指標である。
隔絶された「かわいい」の世界にいない人間がピンクを自分のものにしようとするのは、神に泥をかけて引きずり下ろそうとするようなものだ。
そう思っていた。
だけれども。
最近になって、ある女の子を好きになった。彼女はアイドルで、ステージに立つときにはピンクの衣装を身に纏う。
アイドル、偶像としてわたしの眼前に現れる彼女がピンクを身につけるのは、至極当然のことと思われる。
しかし、ピンクを身につけるのはアイドルである彼女のみに留まらなかった。
彼女と同じグループに所属している、たくさんの「かわいい」アイドルたちの中で、わたしが一際心を惹かれる対象が彼女であることを示すために、(平たく言えば「推し」が彼女であることを示すために、)必然的にわたしはピンクのアイテムを得ることになる。ペンライト、うちわ、タオル、云々。
不思議と、それらのピンクの持ち物を手元に置くことへの抵抗は生まれなかった。それらはわたしが「かわいい」彼女を好きでいること、「かわいい」に至上の価値を見出していることのしるしだからだ。
わたし自身が「かわいい」の一部になろうとすることとは違っていた。そのことが自分でも分かった。
あのときピンクを手に取った、彼も彼女も、「かわいい」の信奉者たる証として、ピンクを選んでいたのだろうか。
「かわいい」という概念を信仰するひとびとは、数珠のように、あるいはロザリオのように、ピンクを身につけるのかもしれない。
ピンクに手を触れなかったあの頃も、ピンクに手を伸ばすようになった今も、わたしにとってピンクは、理想と偶像を込めた特別な色である。
遠く高いところに輝いている「かわいい」の概念が、わたしの世界に現れたもの、きっとそれがピンクという色なのだと思う。
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