昔から、わたしは学歴を色メガネにして見てしまう。賢い人=素敵な人。わたしも賢くありたい。有名大学を卒業している人はすごい人で、信憑性があり、信用がおける人。そんなイメージを勝手につけてしまっていた。

子どものころから賢くありたいと思うのが常だった。当時の将来の夢は医者になること。たくさん勉強ができなければいけないと家族から言われ、わたしもそう思った。勉強ができる人は賢いと呼ばれる。賢くないと良い高校には行けない。一番賢い高校はどこで、賢い大学はここ、と言い聞かされ、賢くなりたいから勉強をした。とはいえ、勉強をすることはさほど好きではなかったので、明日起きたら賢くなっていないかな、と夢を見たこともあった。とてつもない努力の上に賢さが成り立っていることは知らず、才能に似たものだと勘違いをしていた。そんな私は、眼の前に人に大学卒がいればすぐ尊敬に当たるくらいの単純さがあった。どうして学歴がよく見えてしまうのか、今でもわからない。勉強ができる人という印象なのか、大学のネームバリューなのか、その人自身をみるのではなく、肩書きだけで評価していた私。その評価基準に明確なものはない。今もない。ただ漠然と賢い人が好きで、評価項目が学歴だった。

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実際に私が大学を卒業してみると、案外学歴を問わない世界が世の中だと知る。ちょうどベンチャー企業や起業する文化が浸透してきた時期でもあったからだろうか。学歴不問と書いてある求人も多く見かける。今までこだわってきた私の中からも、学歴というものの存在が薄れた。学歴よりも、その人が何をしてきたか、を受け入れられるようになったのだ。何かを極めている人もすごい人だと思えるようになった。才能がある人もすごいと思うようになった。学歴では中卒や高卒の人でも、活躍している人はたくさんいる。逆に大卒のほうが柔軟に対応できないこともあると知った。勉強をしていい成績を取るだけが賢いではなく、社会で心地よく仕事ができる人も賢い人だ。大学を卒業して、成績もそこまで悪くなかった私は、社会でもちゃんとやっていけると思っていたが、現実は全くかすりもしなかった。働けば、動ける人のほうが良いと評価され、勉強をしているだけの私は頭でっかちだと位置づけられる。インプットは得意でも、アウトプットができなければ賢い証明はできない。気がつけば厄介者のようなポジションにいた事もあった。

今でも、有名大学出身者は賢いと思ってしまう節はある。テレビでコメンテーターをしている人の話を理解できるようになりたいとか、大学教授の話だから聞こうとか、しっかりと色メガネを使ってしまう。昔からかけてしまう色メガネは、外そうと思っても時間がかかるのだろうか。できればそんな色メガネはすぐに外してしまいたい。いらない物差しよりも、相手を受け止められるキャパがほしいと思う。そのほうが私のためにもなると思うからだ。

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最近では、学歴で評価してしまうのは失礼だと思うこともある。日本や海外で活躍している人のすべてが大学や大学院を卒業している人ばかりではないからだ。仕事や社会にあったスキルを持っている人が活躍できる社会になってきていると感じるし、本来はそうであるべきだと思う。私も有名大学を卒業した人ではないので、もし私が学歴で足切りにあってしまったら悔しい思いをすると思う。自分に置き換えてもマイナスな思いを持つので、人からしたらさらに不愉快だろう。全く知らない人に知っているかのような評価をされるのだから。

色メガネは、持ってはしまうものの必要ないしろものだと思う。ない方が明らかに楽だとも思う。最初はフラットに見ること、一回情報を受け入れてワンクッション置くこと。色メガネを持ってしまったら意識をしてこちらに切り替えることも大切かもしれない。賢い人は、学歴を持っている人だけではない。生き方が賢い人、人付き合いが賢い人、というようにさまざまな側面から賢いは見つけられる。そもそも賢いかどうかで人を判断することも、やめなければいけない。気づくと掛けてしまっている色メガネ。取っ払うだけでなく掛けないようにするには、という面でも意識するのは必要なのかもしれない。