数字数字数字・金金金・顔顔顔。妬み嫉みが渦巻くカオスで私が選ぶ道

どれだけ他者を羨んだって、憧れたってその人になれるわけじゃない。生き様、生い立ち、先祖、思考回路など何もかも違うわけだから、人の真似をしてもまるで意味がない。
それなのになぜ人を羨んでしまうのだろう?
憧れの的となる人は、社会が要求する「型」にハマっているから?
この春、私は比較することを卒業してオリジナルな自分の個性を愛していきたいと思う。
先進国での社会の勝者とされるビリオネアやSNS上にだけ存在する美女に憧れなくても、あなたがあなたでいるだけで、私が私でいるだけで完璧なのだ。花マル百点なのだ。
幼稚園の頃から私たちは競争させられ点数をつけられて、比較が良しとされる世界に身を置いてきた。勿論評価基準を分かりやすくするためにも数字は必要なのだろう。
でもそれによって誰かが決めたある一定の基準に満たなければ、「落ちこぼれ」「人生詰んだ」みたいな感覚を抱いてしまうようなシステムに絶望してしまう。
私自身、中学生の頃にインターネット上の書き込みの「○○ランク大学は人生終了確定www」というたわごとを真に受けていたので、それから数年が経って短大に進んだ時にその言葉が脳裏に浮かんできて頭を抱えたことがある。
比較することで成長するし、数字があるから頑張れる面もある。
ただ「それが全て」という価値観に染まった青少年や社会人が大勢いるのも事実で、身近な十代の意見を聞いていると私が十代だった時(七年以上前)よりももっとはるかに殺伐とした世界に生きているのだなと思った。
そういえば、土地柄のせいか私の頃は一般人が今のようにメディアをそこまでうまく駆使しておらず、学校の中で動画を撮られるという意識が皆無だった気がする。
撮影は行事の時や友達同士で写真を撮る時くらいで、動画なんて滅多に撮らなかった。
Vineという動画共有サービスが流行した頃だが、あれは日本人の中でも一等やんちゃな人がやるものであってまず私の学校内にはいなかった。
そんな状況だったのがコロナ禍を経て、今となっては一億総メディア人(びと)社会である。
いつでもどこでもオンエア開始のカオス状態。数字数字数字。顔顔顔。金金金。
生きている世界が違う人の"いま"を垣間見たら、人類同士の比較が急速に高まるのもやむを得ないと思う。
フランス王国の時代にブルボン朝の公爵夫人のモーニングルーティンが配信されたら、民衆の女性たちも羨んだに違いない。
人間の精神活動の根本をさす、「知・情・意」という言葉がある。
知恵知覚、情操、意志のことだ。
最も大切で人間に影響を与えるのは情だということを、数学者の岡潔氏と批評家の小林秀雄氏による対談本「人間の建設」で知って「それな」と思ったのである。
妬み嫉みや比較というものは、知でもなく意でもない。完全に情にカテゴライズされるものだ。
そういった根源的な精神が現代社会でも渦巻いて、大きく世界を動かしているのだと思うと、目に見えない感情というものをぞんざいに扱ってはいけないことがわかる。
「自分が今、SNSで目にした人にちょっぴりジェラシー抱いてるな」と思ったらその感情を大切にしてあげて、クローゼットからアルバムを持ってきて開き、自分のメモリーに浸ると少し落ち着く。
脱・ルサンチマンするには自分を大切にするのが一番なんだなと、ようやく思い知った二十六才の啓蟄(けいちつ)せまる春だった。
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