すまし顔の母の写真を見る度、あの街の熱気とドリアンのにおいが蘇る

街には特有のにおいがある。香港には4回行ったが、風景とにおいがめまぐるしく変わる印象を持っている。
初めての訪問は1996年7月。震災後に上京し、心身ともに疲れ果てていた頃で、母との2人旅でリフレッシュすることにした。
香港にはむせかえるような活気と雑多な顔がある。
おじさんがランニング姿で魚をさばく生鮮市場は生臭く、露店がひしめく旺角は路地ごとに扱う商品、食べ物のにおいが変わった。キンキンに空調の効いた高級店は店員の香水のにおいがしたし、一歩屋外に出ると埃っぽく、排気ガス、飲食店、行き交う人々の体臭、が混在していた。
景色もめまぐるしく変わった。上環の店先に積み上げられた檻の中の生きた蛇を見てギョッとし、セントラルの五つ星ホテルで供される優雅なアフタヌーンティーに自然と笑みがこぼれた。ビクトリアピークの夜景にレパルスベイの光景――。
何でも共存させてしまう香港という街の懐の深さが心地よかった。
ところで、初めて海外にやってきた母が旅を満喫しているのは明らかだった。関西のおばちゃんらしく根気強く値下げを求め、1日前に来たばかりだというのに学生さんに道を教えるなど、持ち前の順応性の高さを発揮していた。
そんな母も貴重な体験をしている。スーパーでドリアンを見つけると、「一度食べてみたい」と言いだしたのだ。持ち帰っても食べないと思うよ、と言っても、「絶対に食べるから」と言い張るので、渋々買って帰ったが、結局、冷蔵庫に入れたまま帰国日を迎えた。
出発時間が迫る中、持ち帰れないし、かといってそのままゴミ箱に捨てるのもどうかと2人で思案したが、客室清掃の人に処分を頼もう、ということになった。
新聞に何重にも包んだドリアンの入った袋とチップを受け取ってもらって事なきを得たが、何食わぬ顔で「お願いできてよかったわ」と言った母の表情を今も覚えている。
すまし顔の母の写真を見るたびに、あの街の熱気とドリアンのにおいが蘇る。
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