バングラデシュから来た彼女に、誰も謝らなかった。助けなかった

中学三年生の時に、バングラデシュから来日されたご夫婦が引っ越して来た。高度経済成長期に建てられたマンモス団地の四階だ。私の家はそのご夫婦の部屋の真下にあった。
イスラム教の服装をした、バングラデシュ人を見た事が無い団地の人達は、蜂の巣を突いたような大騒ぎ。
私が下校すると、団地の前に十重二十重の人だかりができて、怒号が飛んでいた。
「何かあったんですか?」と野次馬根性全開で輪の中心に飛び込んでみたら、バングラデシュの奥さんが囲まれていて、大泣きしている。側には備え付けの、小さいお風呂とガス菅のセットが転がっていた。
周りの人達に事情を聞いた所、皆が口を揃えてこう言った。
「こんな所にお風呂なんか捨てて。これだから外国人は」
私は皆に聞いた。
「なぜこの人が捨てたものだと分かるのですか」
「こんな事するのはこの人しか思い浮かばない」
周りからは「そうだ、そうだ!」とヤジが飛んだ。私は考え込んでしまった。
「これから日本で生活するのに、お風呂を捨てるかなあ」
そう言って初めて、皆が「あ」という顔をした。いや、おかしいでしょう。そこは最初に気づこう、最初に。
「昨日引っ越して出て行った人がいましたよね?その人が捨てて行ったのではないですか」
重ねて聞いたら皆、「なーるほど」とリアクション。なんだ、思い当たる節があるんじゃないか。
「この際だからバングラデシュの方の家にお風呂があるか、確認させて頂いたらどうですか?」
畳み掛けたら「それもそうだね」と言って静かになった。日本語が分からない奥さんの為に、拙い中学英語でなんとか事情を説明。最終的に綺麗なお風呂がついている事が確認され、蜘蛛の子を散らすように皆去って行った。
「なんで誰も謝らないんだ?」
仕方ないから私が代わりに謝った。そうしたら奥さんとの間に友情が芽生えた。
その後も苦労は続いた。2000年当時、横浜市からの重要書類は日本語のみの対応。役所に問い合わせたら、自分たちで翻訳してください、とのそっけなさ。日本人の私でも解読できない難解なお役所文章を、奥さんと二人で必死になって、辞書を片手に英語に直した。
彼女が働きたいと言った時も、人種と宗教を理由に全て不採用になった。私自身、人種の違いやイスラム教への偏見が無かった訳ではない。ただ社会の人々から受ける差別や偏見、心無い発言を彼女と一緒に、私自身が直に受けた事で、こういう人間には絶対にならないと決めた。人生の土台を築く十代で、そのような価値観を確立できた事が私の幸運だと思う。
彼女が一番不安だったのは出産と育児だ。度重なる苦い経験が、「自分が出産できる産院が横浜にあるのか、産まれた子はどうなるのか」と思い詰めるまでになった。二人で毎日少しずつ日本語の勉強をして、評判のいい産婦人科を探して、お医者さんから「大丈夫、産めますよ」と笑顔で言われた時、泣き崩れた彼女の顔を忘れない。
「赤ちゃんは皆可愛い」が口癖の親は結局、私がいくら勧めても彼女の赤ちゃんを腕に抱きはしなかった。この広い広い団地で、産まれてきた赤ちゃんを抱きしめたのは、赤ちゃんのご両親と私の三人だけ。これが現実かと思うとやるせない気持ちになった。
生まれた子が二歳になった時、バングラデシュから日本へ来た家族はオーストラリアへ移住した。お日様の下を堂々と明るく、生きていければ良いと私は思った。SNSをチェックする度、幸せそうなご家族の姿に安心する。北半球と南半球の距離があっても、私と彼女の友情は、これからもずっと続いていく。
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