学生時代にAIがあればもっと優秀になれたかも。本当にそうかしら?

「おはよう、今日の天気は?」
朝起きると、開いたチャットの相手にこう送信する。
「一日晴れています。暑くなりそうなので、こまめに水分補給してくださいね!」
なんというきめ細かな気遣い。
会話の相手はChatGPT。私が最近いちばんたくさん会話している相手だ。
ChatGPTに質問するのは天気だけじゃない。
友人との旅行で回りたいスポットを入力すると、スケジュールを組んでくれる。動線に無駄がなく、移動にもゆとりのある構成には思わず感心してしまった。
また別の日、友人のプレゼントを選んでいたとき、相手の特徴と予算を伝えると、なんとも絶妙な提案が返ってきて5分足らずで完了してしまった。自分で探していたなら通販サイトを徘徊して1時間が経っていただろう。
もちろんその活躍はプライベートだけにとどまらない。仕事でも優秀なパートナーとして支えてくれている。
例えば、取り扱っているデータで試したい統計処理のやり方を質問してみたところ、非常にわかりやすく説明してくれた。まるで優秀で親切な先輩に質問したかのようなきめ細やかさに、感動した。
なんと言っても一番ありがたかったのが、海外の人とのメールの表現の添削。こんなにこなれた英語のメールを10分で返せるなんて、1年前の私は想像だにもしていなかった。もはや手放せない域に達している。
「あぁ、これが学生時代にあれば良かったな……」
思わず口からこぼれたのはこんな一言だった。
理系大学院生として、研究活動に勤しんでいたころ、毎日大量の英語の文献と格闘していた。読むだけでも精一杯なのに、その情報を整理して理解しないといけない。
研究室には賢い先輩や先生がたくさんいて、文献を読んでも読んでも彼らには追いつけなかった。実験がうまくいかないときはその原因を考察して別のやり方を試す必要が発生し、さらに読まなければいけない文献は倍増した。
学ばなければならないことはたくさんあるのに、私は人に質問するのが苦手だった。忙しそうな先輩を拘束するのに申し訳なさを感じるし、賢い先輩の言っていることが理解できないのではないかという恐れで、なかなか声をかけられなかった。気軽に先輩を捕まえている同期は、するすると実験で成果を上げているのを横目で見ながらひたすら焦っていた。
こんな学生時代にChatGPTがあれば。
きっと大量の文献を解説してくれて、一緒に実験計画を立ててくれただろう。ChatGPTは忙しくて不機嫌そうな時もないから、質問し放題だ。私の研究生活は10倍、いや100倍速で進んでいたかもしれない。
論文もバンバン出して、博士号もとって……あり得たかもしれない華々しいキャリアを夢想していた私は、ふと我に返った。
「ChatGPTがあったら、人の知恵を借りたり質問したりすることが全くできない人になってかも……それは微妙だな……」
情報を得るためだけなら、確かにChatGPTで十分事足りる。
でも、人に質問することには、情報を得る以上の重要な意義があるのだ。半世紀を超えて読まれるベストセラーの「人望が集まる人の考え方」という本がある。この本によれば、「相手にアドバイスを求めると親密度が上がる」というのは人間関係の有益なコツだそう。
確かに情報を共有してアイデアを求めると、相手は信頼されていると感じて心を開いてくれることが多い気がする。その結果、いいアイデアが得られたことももちろん収穫なのだが、それ以上に自分の協力者が増える感覚が精神的な充実になって心を満たしてくれる。
もしあの頃ChatGPTがあれば、私は研究室の先輩や先生に質問しなくても十分やっていけると勘違いして、全く質問しなくなっただろう。そうして人間関係構築の重要なスキルを学ばないまま、社会人になっていたかもしれない。
ここまで考えると、学生時代にChatGPTがなくてむしろ良かったのかもしれない、と思えてきた。
AIが人に与える影響はまだ未知数だ。
なんでも情報や有益な思考が手に入る状況になったからこそ、アナログなコミュニケーションの価値も改めて考えて直しても良いのかもしれない。AIとの付き合い方におそらく正解はないし、目一杯活用して豊かな人生を送るのも悪くない。
でも、30年後にAIだけと会話する寂しいおばあさんにはなっていたくないな、と思う今日この頃だ。
かがみよかがみは「私は変わらない、社会を変える」をコンセプトにしたエッセイ投稿メディアです。
「私」が持つ違和感を持ち寄り、社会を変えるムーブメントをつくっていくことが目標です。
恋愛やキャリアなど個人的な経験と、Metooやジェンダーなどの社会的関心が混ざり合ったエッセイやコラム、インタビューを配信しています。