なぜ?全くの他人である芸能人に興味を持ち、楽しげに話題にする人々

2000年代、私が日本の小学校に通っていた当時、プロフィール帳というものが流行っていた。様々な質問が記載されたシートが何枚も入っていて、そのシートを友人に配って書いてもらい収集する趣旨のものだ。
質問には、シート記入者のニックネームや誕生日、食べ物の好み、好きな色といった自己紹介的な内容や、シート配布者(つまりプロフィール帳所持者)について回答する内容、例えば第一印象や今どう思っているかなどが入っていたように思う。漏れなく私もプロフィール帳を持っていたし、友人からシートをもらって書いたことも何度もあるわけだが、そのシートにはいつも回答に窮する問いがあったのを、最近ふと思い出した。
「好きな芸能人は?」
この質問への回答に窮する理由は、当時の情報へのアクセスや私の生育環境から説明できるのではないかと思う。2000年代当時、情報を得るツールとしては、まだテレビが強かった。私がインターネットに触れ始めたのは、中学校に入ってからだったと思う。私の両親は芸能人やタレントにあまり興味がなく、テレビ番組でもニュース、旅行、ネイチャー系のものを好む人々だった。また私の家族は、小学校中学年まで、父親の仕事の関係で日本のテレビ番組へのアクセスが著しく限られた地域に住んでいた。これらの影響を受けてか、私は芸能人やタレントが出るような日本のテレビ番組に興味を持てない子どもだった。
芸能人やタレントは、ただの箱の中の人、全くの他人であり今後関わる可能性もゼロに近い。誰かに助けを求めているような困っている人でもない。私からすると、興味を持てる要素が見当たらない。
一方で、日本の小学校~中学校のクラスメイトとの会話には、芸能人やタレント絡みの話題が多く登場した。「昨日のあのテレビ番組/ドラマ見た?タレントの〇〇が出ていた。あの場面が面白かった」等々。興味を持てない私は、当然のことながら話題についていけなかった。話題についていけなくて休み時間に孤立したり退屈したりするのは苦痛だったし、興味がないのにあたかも興味があるかのように振る舞うのも苦痛だった。
ずっと不思議に思っていた。なぜ、私の周りの友人は、一切直接関わったことのない、テレビでの姿しか見たことがない、芸能人やタレントに興味を持ち、顔と名前を憶えて「好きな芸能人」を決めたり、普段の会話の中で楽しげに話題にしたりするのだろう。そこに使っている労力、もっと他に使いどころがあるのではないか…。
高校以降は人間関係の幅が広がり、話が合わない人とは距離を取ることができるようになり、「芸能人やタレントに興味を持って情報を継続的にストックしている人たち=なぜそこに労力を割くのか私には理解できない人たち」という色メガネが顔を出す機会は、意識に上るほどには無かったように思う。しかし会社員という仕事上関わる人を選べない立場になり、かつコロナ後上司や同僚と対面で会って雑談することが増えてきたことを契機に、久々にこの色メガネが戻ってきた。
遠距離の出張が多いプロジェクトにアサインされ、出張先で上司や同僚と食事をする機会が増えたのだが、その席の会話で芸能人やタレントの話題を彼らが持ち出すことがある。その度に私の中の色メガネが発動し、彼らに対する見方と距離感が少し変化するのを感じる。「あ、この人たちも、私には理解しがたい/私とは異なるタイプの人間か」と。そして案の定、私はその話題についていけないのである。
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